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古本夜話862 織田作之助『西鶴新論』と修文館

 前回、『世界文学』の表紙目次にある織田作之助「ジュリアン・ソレル」にふれられなかったので、続けて織田に関しての一編を挿入しておきたい。

 織田は大阪の下町に生きる人々を描いた『夫婦善哉』、及び豊田四郎監督、森繁久彌と淡島千景共演の同名映画による印象が強く、外国文学との関係は希薄なように見えた。しかし実際には三高に入り、山本修二、伊吹武彦教授や同級の詩人の白崎礼三を通じて、外国文学に傾倒し、それは同人雑誌『海風』に発表した作品に表出し、さらにスタンダールの『赤と黒』の出会いによって決定的となった。そうして織田は『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルに自分を擬したのである。
夫婦善哉 夫婦善哉 赤と黒

 織田は「ジュリアン・ソレル」において、スタンダールは人間を「精神的貴族と、精神的の可能性として書く」と見なし、ジュリアンがその「情熱の可能性にほかならない」と述べている。そして『赤と黒』を八回も読み、小説というものを学び、自らの小説でも「ジュリアンの爪の垢のやうな人物を描いた」と告白している。戦前の『赤と黒』の翻訳は、本連載248などの佐々木孝丸訳の新潮社『世界文学全集』や春陽堂「世界名作文庫」版しかなかったので、このどちらかで読んだと思われる。

 そのスタンダリアンの織田が次に取り組んだのは井原西鶴だった。それを本連載283の大谷晃一の『生き愛し書いた―織田作之助伝』(講談社、昭和四十八年)は丁寧にたどっている。この伝記は西鶴のことだけでなく、昭和十年代の大阪の出版社環境の中における小田の立ち位置や軌跡も記され、東京からだけでは描けない関西の文化土壌を描いているといえよう。私も大谷の伝記で教えられたのだが、第一作品集『夫婦善哉』は藤沢桓夫の口ききで、昭和十五年に、これも先の大谷がまさに創業者のポルトレを描いた大阪の創元社から刊行され、「一ヵ月で十一版を朝ね、よく売れた。一版は千部」だと記されている。
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 織田と西鶴の邂逅も『夫婦善哉』の出版を機としていて、『週刊朝日』の大久保恒次から間接的に献本された志賀直哉は、織田がもっと西鶴を読むべきだといい、大久保はそれを織田に伝えてのである。大谷は織田の「その頃まだ『一代男』すら通読していなかった私は、あわてて西鶴を読み出し、スタンダールについでわが師と仰ぐべき作家であることを納得した」という織田の言を引用している。

 そうして織田は西鶴に関する本を集め、読みまくって傾倒し、三田村鳶魚の『西鶴輪講』の伏字に至るまで、全部埋められるというほどになった。ところがその一方で、織田は昭和十七年四月に勤め先の夕刊大阪新聞社を退職してしまった。その後の事情と『西鶴新論』出版に関して、大谷は次のように書いている。

 新聞社をやめ、給料から離れて筆一本で暮さねばならない。変化がおこった。まず単行本の書き下ろしに精を出した。(中略)彼の首を切った鷲谷が心配し、大阪博労町の出版社修文館を紹介してやった。中等教科書を出していたが、固い一般書もやりたいからという。作之助は大変乗り気で、予定を変えて、『西鶴新論』を書き下ろすことにした。(中略)
 あっと言わしたる、とここでも修文館社員の秦邦夫に打ち明けている。そして脚光を浴びたい。以前に上京した際、新宿の屋台で西鶴研究者の暉峻康隆と出会い、そのうちあんたの知らない西鶴を書きますよと、作之助は昂然と言い放っている。当時出版されている西鶴の関係書はまずほとんど目を通して活用した。中でも山口剛の著書から多くを得た。『西鶴新論』を読んだ野間光辰は、学者の説を引用しすぎと評した。そこへ強引に、大阪とスタンダールをくっつけた。すなわちスタンダールとは自分のことである。西鶴に名を借りた私の小説論ノートだとも、秦に話した。

 その『西鶴新論』が手元にある。確かに織田の自慢の書き出しの「西鶴は大阪の人である」から始まっている。四六判上製、函入、本文二八八ページで、「あとがき」には「西鶴論に名を籍りた私自身の小説論になつてゐるかも知れない」との一節が見え、いうなれば、「あるがままの人間を、あるがままに繰り返して書くより外に致し方なかつた」彼の文学のベースを物語っていることにもなる。
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 秦が装丁を、函入にすると、織田はひどく喜んだと大谷は書いているが、タイトルも著者名も自筆によるものと推測できるので、自装に近かったのではないだろうか。昭和十七年七月刊行で、初版は五千部とあり、戦時下の大阪の文芸専門書の出版社でなくても、その部数が刊行できたことにもなる。発行者は大阪市東区博労町の鈴木常松、鈴木と版元の修文館は、湯川松次郎の『上方の出版と文化』(上方出版文化会)によれば、大阪の老舗出版社兼取次の積善館の出身で、大阪の教科書出版の先達であり、大阪書籍会社重役や大阪書籍雑誌組合会長などを務めたとされる。しかし戦後は姿を消してしまったようだ。
上方の出版と文化


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