出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話866 大木惇夫『緑地 ありや』と『豊旗雲』

 詩人の大木篤夫=惇夫も大正時代に博文館に在籍していて、彼は戦後になって自伝ともいうべき『緑地 ありや』(講談社、昭和三十二年)を著わし、その時代を回想している。これは娘の宮田毬栄の評伝『忘れられた詩人の伝記』(中央公論社)のベースになっているだけでなく、博文館史の資料としても貴重な一冊に他ならない。
忘れられた詩人の伝記

 大木は広島商業を出て、地元の三十四銀行に勤めていたが、東京の不動産銀行の機関雑誌『ニコニコ』の編輯部にスカウトされ、上京する。そして編輯と営業の仕事を兼ね、正則英語学校の夜間部に通っていた。ところが社長が『太陽』主筆の浅田江村の友人だったことから、博文館に行くように勧められ、浅田と編輯局長の長谷川天渓の面接を受け、即日採用される。

 それからすぐに、私は広い編輯室へ連れて行かれ、十幾種もある雑誌の編輯主任にいちいち紹介されて廻つた。『少女世界』の沼田笠峰、『少年世界』の竹貫佳水、『幼年世界』の武田鶯塘、『文芸倶楽部』の森暁紅、『文章世界』の加能作次郎、『講読雑誌』の生田蝶介、『淑女画報』の須藤鐘一、『家庭雑誌』の中山太郎、『冒険世界』の誰、『農業世界』の誰といふ風に、私は博文館の規模の大きさに驚いた。最後に『生活』の浜田徳太郎に紹介され、この人の助手として働くことが決まつた。

 博文館の大正時代の編集者兼文学者が一堂に会して紹介される例は少ないと思われるし、
本連載49の中山太郎、同547の生田蝶介、同548の加能作次郎も顔を揃えているので、その部分を引用してみた。続けてこれも同94の『新青年』の森下雨村、『女学世界』の岡村千秋、大木と前後して入社した長谷川浩三、相原藤也、岡田三郎、保高徳蔵、西川勉、石黒露雄、首藤政雄、佐藤醇造などの名前も挙げられている。こうして大木も博文館の編集者兼文学者の列に加わったことになる。

 大木は北原白秋の知遇を受け、大正十五年に処女詩集『風・光・木の葉』を刊行し、白秋の抒情の正統な後継者としてデビューし、続けて『秋に見る夢』(いずれもアルス)を上梓している。これらの初期詩集は『大木篤夫抒情詩集』として、昭和六年に博文館から刊行されているようだが、これは未見である。
f:id:OdaMitsuo:20190115112650j:plain:h120

 さてそれから時間が少し飛んでしまうけれど、昭和十六年に大東亜戦争が始まり、大木は四十六歳で徴用令を受け、文化部隊宣伝班の一員としてジャワ作戦に配属になった。そしてバンタム湾での日本艦隊と米英などの連合艦隊の激しい海戦により、乗船していた佐倉丸が敵の魚雷を受け、撃沈された。大木は同乗の本連載787の阿部知二、これも同132の富沢有為男、同635などの大宅壮一、浅野晃や作曲家飯田信夫や漫画家横山隆一たちと海を漂流し、数時間後に救出され、万死に一生を得た。その体験をベースにして詩集『海原にありて歌へる』を現地出版する。それは内地帰還後、日本出版会と文部省の推薦図書となり、さらに文学報国会の大東亜文学賞を受賞するに及んだ。これをきっかけにして『雲と椰子』(北原出版)、『神々のあけぼの』(時代社)、『豊旗雲』(鮎書房)などの多くの「愛国詩」を書くに至った。
海原にありて歌へる (『海原にありて歌へる 』、アジヤラヤ出版) f:id:OdaMitsuo:20190115135616j:plain:h115(アルス)

 これらは『大木惇夫詩全集』(第二巻、金園社、昭和四十四年)に収録されている。それによれば、『海原にありて歌へる』はジャカルタのアジヤラヤ出版部から刊行され、「序文」はジャワ派遣軍宣伝報道部長町田敬二が記し、「跋文」を浅野、富沢、大宅が担い、装幀は河野鷹思、編纂は北原武夫が受け持っている。同巻の口絵写真に文化部隊の戦友として、大木、富沢、阿部たちと並んで河野も映っているので、彼もその一員であり、北原と同様だったと推測される。
大木惇夫詩全集
 『海原にありて歌へる』を読み、よく知られた「言ふなかれ、君よ、わかれを、/世の常を、また生き死にを、」と始まる「戦友別盃の歌」がこの詩集に収められていたことを初めて知った。おそらくこの詩によって、『海原にありて歌へる』は大きな評価を得たのではないだろうか。そして内地版は翌年の十八年北原出版から刊行されているが、これは戦時下の企業整備により、アルスグループが合併したことで立ち上げられている。

 その金園社の『詩全集』版とは別に、『豊旗雲』を入手している。奥付には昭和十九年五月発行署は八〇〇〇部とあり、発行者を池田忠夫とする鮎書房からの刊行である。B6判の裸本だが、背と中扉タイトルの題簽は大木自身によるもので、朱色で記され、それらは「大東亜戦争頌詩集」が付されている。これも巻頭に楽譜とともに据えられた山田耕作作曲の「学徒出陣」の歌詩が、やはり大木の手になることを教えられた。そこには次のようなフレーズが見えている。「このペンは捨つるにあらず、/はぐくみて 胸に留め/たましひの弾ともなして/手にこそは銃を執るなれ」

 北原白秋の『思ひ出』や三木露風の『廃園』から大きな影響を受け、処女詩集『風・光・木の葉』で抒情詩人として出発した大木にしても、大東亜戦争下の大東亜共栄圏幻想の中で、愛国詩人として転回していったのであり、それらの詩集は大木だけでなく、日本の詩人たちの大東亜戦争下における心的現象を象徴しているように思える。
f:id:OdaMitsuo:20190115232331j:plain:h120(日本近代文学館復刻)


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら