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古本夜話867 大木惇夫と『世界大衆文学全集』

 前回の大木惇夫の『緑地 ありや』の中に、やはり見逃せない出版史に関する証言があり、それにもふれておきたい。

 大木は同僚だった本連載676の岡田三郎の勧めで、ロープシン作、青野季吉訳『われ青馬を見たり』を読み、その文体の新鮮さに驚き、文学に新しい時代がきたと思った。これはいうまでもなく、大木の思い込みによるタイトルの間違いで、やはり同540で言及しているように、『蒼ざめたる馬』である。この日記体の作品を読むことによって、大木は創作意欲をかき立てられ、それが大阪朝日新聞社の二百円の懸賞付き芸術小説部門入選作『弱者』へと結実していった。長篇小説部門はこれも同382の吉屋信子の『地の果てまで』だった。

 (『蒼ざめたる馬』)

 この入選に加えて、博文館の仕事に気が乗らなくなったことや妻の恵子の肺結核の悪化もあり、大木は会社を辞め、小田原に転居した。そのはなむけとして、『新青年』の森下雨村が外国探偵小説、『家庭雑誌』の中山太郎が翻案小説のそれぞれ一年間の連載を依頼してくれた。これで生活費はまかなえたし、小田原に籠って大作を書き上げるつもりでいた。それは大正十年、大木が二十六歳の夏だった。

 それから博文館の『中学世界』の羽生操を通じて、やはり小田原在住の北原白秋の知遇を得て、大正十一年に白秋と山田耕作を主幹としてアルスから刊行された『詩と音楽』に、初めて詩を発表する。そして東京に戻り、十三年にパピーニの『基督の生涯』上下巻の翻訳、翌年には処女詩集『風・光・木の葉』をアルスから刊行し、前者はベストセラーとなり、後者によって詩人として文壇に認められ、雑誌や新聞などからも執筆依頼を受けるようになった。しかしそれらの収入は妻の療養費につぎこまれ、生活は楽ではなかった。
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 それをいささかなりとも救ったのは昭和円本時代の到来で、アルスの『日本児童文庫』の『西洋冒険小説集』と『愛の学校物語』の翻訳、中央公論社の『千夜一夜』の大宅壮一を団長とする翻訳団への参加、改造社の『世界大衆文学全集』の『赤襯衣物語他二篇』の翻訳であった。とりわけ『赤襯衣物語他二篇』は大金をもたらした。『緑地 ありや』からその部分を引用してみる。
f:id:OdaMitsuo:20190116115409j:plain:h120(第48巻、『赤襯衣物語他二篇』)

 改造社から『世界大衆文学全集』中の一巻の印税を郵送して来た時、私はそれを知らなかつた。あとで恵子が書留の郵便を私に見せびらかして、さんざ焦らした末に、中身を出して見せた。千二百なにがしの小切手だつた。私は躍りあがつたが、これほどの金もいづれかは療養費の穴埋めに消えてなくなることになつてゐた。

 この昭和五年三月発行、訳者の写真が巻頭にある一巻は所持していて、『世界大衆文学全集』の第四十八巻に当たる。タイトルに挙げられているゴロオー『赤襯衣物語』は「フランス大革命余談」が付されているように、主人公をバツ男爵とするフランス革命をめぐる陰謀物語であるが、作者のゴロオーは詳らかでない。併録はアメリカの怪奇作家ウイリアム・ルキュウ『ピムリコ博士』、アメリカの怪奇小説作家ヘルマン・ランドン『緑の扉』で、前者はル・キューとして権田萬治監修『海外ミステリー事典』(新潮社)に立項されているけれど、後者は見当らないが、近年になってハーマン・ランドンとして、『怪奇な屋敷』『灰色の魔法』(いずれも論創海外ミステリ)が翻訳されている。それゆえにこの巻は『世界大衆文学全集』の中にあって、原著者にしても訳者にしても、イメージとしてはマイナーな一巻だと考えていいだろう。
海外ミステリー事典 怪奇な屋敷 灰色の魔法

 しかし「千二百なにがしの小切手」という言から判断すると、定価は五〇銭だから、五銭の翻訳印税として試算してみれば、二万四千部を発行したことになろう。この『世界大衆文学全集』に関しては本連載95で江戸川乱歩の証言を引き、初期の配本は十数万部であったことを確認している。だが巻数が進むにつれ、部数が落ち、配本どおりではないけれど、第四十八巻の場合、四分の一以下になっていたことを告げていよう。このような円本の全集物の発行部数の推移ははっきりしていないことが多いので、こうして中途の部数が類推できるだけでも、大木の証言は貴重なもののように思える。

 それにこれも同95で既述しておいたが、改造社の『世界大衆文学全集』の全八十巻に及ぶ企画と編集の事情は判明していない。しかし『新青年』の初代と三代目編集長の森下雨村と延原謙が訳者として参加していることからすれば、この二人と『新青年』と博文館人脈がまさに総動員されて成立した可能性が高い。しかも大木は妻の療養費に窮していたし、前述したような博文館の関係から、彼もその訳者の一人として召喚されたと考えられる。

 大木の上京後の博文館から文学者への道をたどってみると、それは当人にとっては困難だったにしても、とても恵まれていたように思える。現在ではそのような出版状況にないからだ。

 なお中央公論社版『千夜一夜』については本連載で後にまとめて言及するつもりでいるので、あえてふれなかったことを付記しておく。


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