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古本夜話875 海軍有終会『増訂太平洋二千六百年史』

 『増訂太平洋二千六百年史』という大著が昭和十八年に刊行されている。これも大東亜戦争下における南方問題と密接に関連しているというしかない。A5判上製、函入、本文一〇八六ページ、索引と付表が八八ページ、補遺が一三二ページ、定価は十五円で、編輯者は廣瀬彦太、発行者は財団法人海軍有終会となっている。編輯者にしても発行者にしても、初めて目にするのだが、奥付には取次として日配も記されているので、これもまた取次と書店を通じて流通販売されたことになる。
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 「序」は昭和十五年六月の日付で、海軍大将有馬良橘によって寄せられていることから、同書の初版刊行は三年前だったとわかる。そこには次のような文言が見える。

 今や東洋の盟主たる帝国は支那事変を契機として、東亜新秩序の建設に邁進しつゝあり。而して東亜新秩序の建設は将来南方問題の解決により、始めて画龍点晴の域五達するものなることを思ふとき、太平洋問題は一層の関心を惹く。況んや欧州動乱の極東波及端倪すべからざるに加へ、米国は全艦隊を太平洋に集中して、英仏勢力後退後に於ける東洋の番犬を以て自ら任じつゝあり、太平洋の波静かならんと欲して能はざるに於ておや。

 昭和円本時代に朝日新聞社から米田実の『太平洋問題』(「第二朝日常識講座」1、昭和四年)が出され、それが「大西洋時代は去つて、太平洋時代が来た」と書き出されていた。それはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連にしても、すでに主要な舞台を大西洋から太平洋へと移そうとしていることを論じた一冊だった。それから十年が過ぎ、「太平洋問題は一層の関心を惹く」段階へと至り、ここに『太平洋二千六百年史』が提出されたことになる。
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 海軍有終会が記す「緒言」によれば、本会はすでに『幕末以降軍艦写真と史実』『近世帝国海軍史要』を編纂公刊している。この二書に加えて、「我が国を中心とする太平洋を繞る諸国勢力消長の歴史、竝に関係地方の現勢を編述」することは、「国民の海事思想普及に資する」と抱懐してきた。そこに海軍省海軍軍次普及部から同様の提案が出された。それは義勇財団海防義会と協力し、「皇紀二千六百年記念事業」としての本書編纂で、東洋史に精通する学者、太平洋の事情に詳しい研究家などの協力、海軍省方面の校閲を得て、ここに完成を見るに至ったのである。
幕末以降軍艦写真と史実(吉川弘文館復刻) 近世帝国海軍史要( 原書房復刻)

 それゆえに『太平洋二千六百年史』は海軍による太平洋の色彩が強く、「同編纂委員及顧問」の二十五名はほとんどが現役の海軍上層部の人々で占められ、その事業主務はそのうちの一人である海軍大佐大島良之助が担ったとされる。次に二十四人に及ぶ「編纂分担者」リストも掲載され、これもあえて名前を挙げないけれど、東京帝大資料編纂所などの大学に属する学者、南洋経済研究所や東亜経済調査局に在籍する研究者たちのコラボレーションによって、『太平洋二千六百年史』は成立したことになる。

 「総説」は「惟ふに太平洋二千六百年史は我が肇国以来現今に至る大和民族の太平洋生活乃至発展しである」と始まっている。それに第一部としての「歴史編」が続き、ヨーロッパ諸国の東洋発展以前の時代から発展と日本の寛永の鎖国の時代、欧米近代諸国の太平洋発展時代日本進出がトレースされる。それとパラレルに太平洋における明治維新、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦までの時代がフォローされ、現在の満洲事変、支那事変後の太平洋が論じられていく。

 そして次に第二部としての「現勢篇」が置かれ、日本、中華民国、タイ、オーストラリア、ニュージーランド、ボルネオ、熱帯太平洋諸島などの英領各地、自治領お呼び委任統治領、ハワイ、フィリピン諸島、グアム島などの北米合衆国及び同領有地、インドシナに代表されるフランス領各地、ソ連、オランダ、ポルトガルの各地の現在状況が分析される。

 これらに昭和十八年の再版といえる『増訂太平洋二千六百年史』はさらに、「現勢編」として一三一ページが追加され、ここで大東亜戦争下における太平洋問題の新しいデータが寄せられたことになろう。

 しかしそのかたわらで、昭和十八年の年表を繰ってみれば、山本五十六連合艦隊司令長官は戦死し、日本軍アッツ島守備隊は全滅している。また御前会議で、「大東亜政略指導大綱」が決定され、日本が占領していたビルマやフィリピンなどが独立し、日本との同盟条約を調印し、タイや満洲などと日本での大東亜会議に参加し、大東亜共同宣言を発表している。だがその一方で、学徒出陣も始まり、日本マキン・タラワ守備隊も壊滅し、昭和十九年の日本海軍に大打撃を与えるマリアナ沖海戦とレイテ沖も迫りつつあった。

 そのような状況の中で、この『増訂太平洋二千六百年史』は刊行されたわけだが、どのようなルートをたどったのかはまったく不明であるけれど、七十年余を経て、私の手元に届けられたことになる。


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