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古本夜話883 徳川義親、朝倉純孝『馬来語四週間』と大学書林

 これも古本屋の均一台から拾ってきたものだが、大学書林の徳川義親、朝倉純孝『馬来語四週間』、本連載517の今岡十一郎『洪牙利語四週間』、同279の日本出版社の久田原正夫『タイ語の研究』を入手している。これらは大東亜共栄圏幻想の拡大に伴うようにして刊行、もしくは版を重ねていったと思われる。前者の「語学四週間叢書」には同879の日本エスペラント学会の小野田幸雄『エスペラント四週間』の他に、竹内幾之助、出村良一『蒙古語四週間』、木村一郎『印度語四週間』なども含まれている。
ハンガリー語四週間(今岡十一郎著)

 それらの戦時下の出版状況はともかく、昭和三年に佐藤義人が創業した大学書林はこのような言語も扱う語学出版社として異彩を放っているし、各辞典や「語学四週間叢書」の出版経緯などは、出版目録を兼ねた『大学書林の三十五年』(昭和三十九年)に詳しい。ここではそのうちの『馬来語四週間』を取り上げてみたい。ちなみに徳川義親は侯爵で、平河出版社の『近代日本生物学者小伝』(昭和六十三年)に立項され、朝倉純孝のほうは東京外語教授であり、戦後は『インドネシア語四週間』(同二十七年)を出している。

近代日本生物学者小伝(『近代日本生物学者小伝』) f:id:OdaMitsuo:20190214172923j:plain:h115

 まず手元にある昭和十七年版の『馬来語四週間』で驚かされるのは、初版が昭和十二年六学に千部刊行され、十六年六版で八千六百部まで版を重ねていた。ところが、南進論と相乗してか、十七年五月には第七版五千部、同十月には第八版一万部と発行と奥付に記されている。これは軍による採用を考えるしかない重版部数であり、戦時下の出版状況の一端を告げていよう。しかもそれは十八年も続いていたはずだ。朝倉がその「序」で、「南方に活躍せんとする諸子」の参考になればと記している言が実効段階に入りつつあったとも見なせよう。

 『近代日本生物学者小伝』によれば、徳川は植物学者で、明治十九年に元越前藩主の五男として生まれ、後に尾張徳川家の十九代となり、侯爵を襲爵。東京帝大理科大学植物学科卒業後、自邸内に徳川生物研究所を創立し、生物学の発展に寄与する。北海道の農場に出かけ、原始林に住む熊の狩をしたので、「熊狩の殿様」とも呼ばれた。大正十年に医師の勧めで病気療養のためにマレーに旅行し、この時にマレー語を勉強し始めたとされる。

 その徳川義親が隠れたる主人公のように描かれ、登場する一冊がある。それは「占領下シンガポールと徳川侯」というサブタイトルを付したE・J・H・コーナーの『思い出の昭南博物館』(石井美樹子訳、中公新書)で、昭和五十七年に刊行されている。原書タイトルはThe Marquis:A Tale of shonan‐to である。コーナーはシンガポールのラッフルズ博物館と植物園の運営に携わり、後者の副園長を務めていた。ところが昭和十七年二月に大英帝国政府機関は降伏し、日本軍に占領され、シンガポールは昭南島と名前が変わった。それに合わせ、マレー半島の歴史と文化の宝庫たる博物館、マラヤの自然で埋もれた世界一の植物園も、それぞれ昭南博物館・植物園と改名され、館長には地質学者の田中館秀三が就任した。コーナーはそれを補佐する立場に置かれた。
f:id:OdaMitsuo:20190214174539j:plain:h115(『思い出の昭南博物館』)

 そこに勅任官待遇の軍最高顧問として、シンガポールに派遣されてきたのが五十五歳の徳川義親侯爵で、総長のポストを引き受け、博物館と植物園はひとつの組織に統合され、コーナーたちはその顧問、もしくは研究仲間といったかたちで参画することになった。侯爵たちと同様に、博物館や植物園が人類共有の財産と考えていたからだ。そしてコーナーの目に映った侯爵の姿が描かれていく。彼は日本人こそマレー語を習うべきだとの考えで、現地人に日本語を強要しなかった。

 侯爵はマラヤの歴史について研究をしていた。そのため、博物館の参考図書を広範囲に利用していた。とくに王立アジア協会マラヤ支部の図書を大事に利用していた。またマレー人を数人雇い、ジャワ、スマトラ、マレー語をローマ字のマレー語に直させ、その原稿から日本語の教科書と辞典を作成していた。(中略)
 侯爵がマレー語を勉強し始めたのは大正十年、はじめてマレーに行った時であるが、ジャワで開かれた汎太平洋学術会議に出席してからは、本格的に取り組みはじめた。昭和十二年には東京外語大学の朝倉教授と共著で、『マレー語四週間』を出版している。軍最高顧問としてシンガポールに来てからは、現地の伝説やおとぎ話をかたっぱしから読み、一日に十五分は必ずマレー語とつきあっていた。シンガポールには英国人の手になる英・マレー語の辞書がたくさんあったが、それにひきかえ、日本は台湾、朝鮮を長期間統治していたにもかかわらず、日・台、日・朝の辞書さえなかった。侯爵はせめて自分お統治するマレーと日本語の辞書を自分の手で作ってみようと思ったのである。

 残念ながら、侯爵はほとんど毎日博物館でマレー語辞典の仕事に取り組んでいたが、昭和十九年暮れに昭南島を引き揚げることになり、辞書の仕事は未完に終わってしまった。しかしその代わりに、昭和三十八年に朝倉によって、五万語を収録した『インドネシア語小辞典』がやはり大学書林から刊行されている。
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 また大学書林の「出版年譜」を見てみると、『馬来語四週間』出版後、昭和十六年には武居喜春『実用馬来語会話』、十九年には薗田顕家『初級馬来語読本』が刊行されている。武居や薗田も、徳川や朝倉の近傍にあった人物なのであろうか。


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