前回の『娘と私』を読んでいて、あらためて獅子文六となる前の岩田豊雄が渡仏して、演劇に魅せられ、帰国後には岸田国士たちと新劇研究所を創設したり、円本の翻訳に携わっていたことを知った。それらのことは『娘と私』の中に、次のように具体的に述べられている。
(第六巻、『娘と私』所収)
麻理の最初の誕生日を迎える頃には、私の仕事も、やっと、芽を吹いてきた。舞台の研究書や、フランス戯曲の翻訳や、アテもなしに書いて置いたものが、出版される運びになった。そして、世の中が大正から昭和と変って、円本時代というものが始まり、近代劇全集の翻訳者の一人として、私は、どうやら、生活の道が立つようになった。また、ある劇団の演出者として、その頃の私の本願であった舞台の仕事にいそしむことができた。
この『近代劇全集』 全四十三巻、別冊は浜松の時代舎から恵贈されたこともあり、かつて「第一書房『近代劇全集』のパトロン」(近刊『古本屋散策』所収)や「第一書房と『セルパン』」(『古雑誌探究』所収)などで言及しているので、ここでは岩田が翻訳した作品を抽出してみる。それらは十三巻ある「仏蘭西篇」のうちの五冊に収録されているナンバーはその巻数である。
(第23巻)
18 ヴィルドラック | 「寂しい人」 |
20 アンリ・バタイユ | 「結婚行進曲」 |
21 エミイル・マゾウ | 「ダルダメル」 |
22 ジムメル | 「肥えた犢」 |
23 ロマン | 「クノツク」「トルアデツクの放蕩」、 |
アシヤアル | 「ワタクシと遊んでくれませんか」 |
さらに付け加えておけば、これらの「仏蘭西篇」の他の訳者たちは、本連載でもそれぞれ言及してきた西條八十、堀口大学、内藤濯、吉江喬松、岸田国士、山田珠樹、鈴木信太郎、辰野隆などである。この第一書房の『近代劇全集』は昭和二年から刊行され始めているのだが、それに併走するようにして、同三年に岸田国士編輯による演劇雑誌『悲劇喜劇』が創刊される。この広告が「近代劇全集月報」第十六号(『近代劇全集』第四十一巻所収)に出されている。
それによれば、第一書房が発行所となっているけれど、書店販売はなされず、直販雑誌であるとの知らせが記され、編輯所と問い合わせ先は岸田と岩田の住所が示されている。これも今日出海の「追悼」(『獅子文六全集』別巻 「月報」所収)を参照すると、『悲劇喜劇』は『近代劇全集』 の宣伝を兼ねて創刊され、その編集の下働きをしたのが、今、中村正常、阪中正夫、阿部正雄(後の久生十蘭)たちであり、その編集会議は常に岩田が出席していたという。今の証言によれば、岸田と岩田はともにフランスで近代劇にふれていたことで、親密な交遊に至ったのではないかとも推測されている。
これらの事柄から考えれば、『近代劇全集』 の「仏蘭西篇」は岸田が中心となって企画され、それに岩田も加わり、『悲劇喜劇』も創刊されていったことになる。同誌は四年七月の第十号までが出され、そこには中村、阪中、阿部の戯曲も発表されている。『悲劇喜劇』といえば、戦後の昭和二十二年に早川書房が創刊した雑誌と見なしていたが、それは岸田の仕事を引き継いだものだとわかる。これも詳細は不明だけれど、早川書房創業者の早川清は戦前から『劇文学』などの演劇雑誌に関係していたと伝えられているので、当初は早川書房も演劇関連出版社をめざして発足したとも考えられる。
(第一書房版)(早川書房版)
それも含めて、第一書房の『近代劇全集』の刊行は、その後の演劇運動に大いなる影響をもたらしたであろう。その昭和六年刊行の別冊の『舞台写真帖』における第一書房長谷川巳之吉の「近代劇全集完了の御挨拶」によれば、当初の予約者たる会員数は三万五千余人だったが、最後は六千人まで減少していたようだ。しかし「近代劇全集については色々と感慨無量な事ばかりで際限もなくなりますからいづれ別の機会に譲ります」として、今はなき片上伸と小山内薫への謝辞と追悼を述べている。この二人も岸田と同様に、『近代劇全集』のブレインだったのである。
そしてまた編輯などに専念した酒井欣が「近代劇全集の功労者」として顕彰されている。だがこの人物のことは林達夫他編『第一書房長谷川巳之吉』にも見えておらず、まったくわからない。その他にも西脇順三郎夫人のマジヨリイ、鈴木大拙夫人のビアトリス、第一書房の最初のパトロネスで、芥川龍之介たちのミューズであった片山広子の『近代劇全集』への関与などについても、それらの経緯と事情は判明していない。そうした意味においても、円本としての『近代劇全集』も多くの謎を秘めたままだといえよう。
ただその一方で、獅子文六や久生十蘭といった外国演劇から学んだユーモアと技巧を兼ね備えた作家たちの揺籃の地であったことにもなる。それゆえに、『近代劇全集』全四十三巻と別冊は様々なアングルから言及されなければならない円本のひとつであり続けているし、本連載でもさらにふれることになろう。
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