出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話890 ドラポルト『アンコール踏査行』=『カンボヂャ紀行』と藤原貞朗『オリエンタリストの憂鬱』

 少しばかり飛んでしまったが、本連載704などで証言されているように、大東亜戦争下において、アンコール関連の著作や翻訳の刊行も見ていた。それにはまず三宅一郎訳によるドラポルトの『カンボヂャ紀行』(青磁社、昭和十九年)が挙げられるが、『アンコール踏査行』として訂正加筆され、平凡社の東洋文庫で復刊されている。これはメコン川探検隊を組織し、その隊長となったルイ・ドラポルトが著わしたアンコール学の古典で、ここからクメール研究が始まったのである。青磁社版は入手していないので、東洋文庫版によって、それを見てみる。
アンコール踏査行(『アンコール踏査行』)

 まず冒頭にインドシナ半島の地図が示され、安南帝国の最南にあるフランス領コーチシナとカンボジアが示され、それらを貫いてメコン河が流れ、その奥にアンコールが見出されるのだった。一九五八年にフランス人博物学者がアンコールの遺跡を訪ね、その感動を遺著に記したことが述べられ、それはドラポルトも同様だった。「インドと中国の混合芸術から発生したクメール芸術は東洋のアテネ人とも呼ばれうる芸術家たちによって純化向上し、インダス河から太平洋へとひろがるアジアの広大な地域における、人知のもっとも美しい顕現として現存して」いたからだ。

 ドラポルトはコーチシナ総督とフランス美術院、植民省の協力を得て、一八七三年に二度目のクメール遺跡探検隊を組織する。それは一隻の砲艦と一艘の大型汽艇に一行五十人を乗せ、サイゴン港からカンボジアの沼沢の多い広大な森林を通っていく特殊な探検旅行といえた。メコン河に入り、ミト港を経て、カンボジアの首都プノンペンに至る。フランス保護国の都は目覚ましく発展し、ヨーロッパ風となり、中国人、ベトナム人、マライ人、タイ人、少数のヨーロッパ人が混住している。カンボジアのノロドム王はフランス人の考古学研究への便宜を約束したが、病弱で、統治の力が落ちているのは明らかだった。メコン河を進んで行くのは厳しい忍耐の練磨が不可欠で、それほど屈曲し、陰鬱で、あらゆる自然の障害が充ちていた。

 原生林の深い影の中にある河底は小灌木や蛇や無数の赤アリで埋まり、岸には大木が連なり、木立からは一群の鳥たちが飛び立ち、逆流の間には巨大なワニの死骸が横たわり、それに大ハゲタカが嘴を突き立てていた。そして行くこと五日目に古代クメールのポンテアイ・プレア・カン廃墟とプレア・トコール塔などに至り着く。この両者は復原図として掲載されている。そこにある彫像などを筏に載せ、運んでいく絵も収録され、それらが後にクメール博物館の一部となっていることも付記されている。それは「考古学的収穫」だが、それとパラレルに博物学者たちはあらゆる種類の昆虫、爬虫類、動物などの蒐集標本を増やすばかりだった。

 それからシャム王国に入り、大アンコールに至る。古代の寺院ともいうべきバイヨンの総配置図が示され、その第三層からなる復原図なども提出され、次にアンコール・ワットの復原図も同様である。それはクメール建築物のうちで最も保存がよく、一目で全体を把握できる、残された唯一のもので、次のように説明されている。

 前景に、九頭の巨竜と唐獅子に取り巻かれた広場、つぎに堤で画した広い池、橋が一つかかり、池へ降りて行く大きな階段が中央にあって列柱がついている(参道はすべて蛇でふちどられ、すべての階段には層段をなしている獅子が備えてある)。さて、つきあたりには、保壁の単一ゴプラ楼門のかわりに、美しい柱廊が池の岸にのび、ぎざぎざの層段落をいただいた三つの中央入口があり、両端に車や象の通路のための二つの大きな車寄せがひらいている。四方には鬱蒼たる樹木、遠くには無数のシュロの葉先にあわや見えなくなろうとしている高い本堂の五つの塔。(後略)

 ドラポルトたちはこのアンコール・ワット、比類なき建物の中を進み、あらゆる部分に施された芸術作品というしかない彫刻とレリーフに詳細な言及を加え、それはオマージュとして告白される。「いく日も、この遺跡、アンコール・ワットの建物へ行けたことは、われわれにとってなんたるよろこびであったことか!」と。だがアンコール・ワットからの「考古学的」記述はないけれど、それらを持ち帰ったにちがいない。

 その次の章にはまたしても筏で運ばれる大きな彫像の絵が掲載されている。そしてナポレオン三世のコンピエーニュ館へと運ばれ、公開された。ドラポルトは「芸術の研究と大蒐集品のパリのただなかに運ばれる日」を熱望しているが、それは一八七八年にパリの万国博覧会で一部が陳列され、ドラポルトたちの挿画を伴う探検記は、フランスのインドシナ幻想とオリエンタリズムを高揚させたにちがいない。八〇年には一五〇の挿画と復原図を収録した『アンコール踏査行』も刊行に至っているからだ。これは想像でいうのだが、これらの探検と挿画復原図は、私たちが少年時代にジュール・ヴェルヌなどを読んで覚えた、未知なる世界への誘いに満ちていたのではないだろうか。それはまた日本の大東亜共栄圏幻想とも重なってくる。

 また「植民地主義時代のフランス東洋学者とアンコール遺跡の考古学」というサブタイトルを付した藤原貞朗の『オリエンタリストの憂鬱』(めこん、平成二十年)の第一章は「ルイ・ドラポルトとアンコール遺跡復元の夢」に当てられている。藤原はそこでギメ美術館の一階正面展示室を飾るクメール彫像群、ドラポルトの肖像写真、『カンボヂャ紀行』の挿画、彼によるクメール彫刻のスケッチを示し、同書の「最初の主人公」に擬している。それはドラポルトが一九世紀後半の植民地における「フランス軍人兼考古学探検家の一つの典型と理想」を伝えていること、及びヨーロッパで初めてアンコール遺跡の彫像をもたらし、クメール美術館を設立し、考古学、美術史的研究を企図し、アンコールの歴史を解明しようとしたからである。
オリエンタリストの憂鬱

 しかしその一方で、ドラポルトの著作には「現実の光景とはかけ離れた幻想的で神秘的なアンコール・イメージ」と「前近代的な西欧人の東洋幻想の多面性」が含まれているのだ。 それらをトレースするために、続けてフランス人によるアンコール関連書を見てみよう。


odamitsuo.hatenablog.com

 
 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら