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古本夜話893 改造社「大陸文学叢書」とマルロオ『上海の嵐』

 前回のマルロオの『人間の条件』も、それをサブタイトルに付し、『上海の嵐』として、昭和十三年に改造社から刊行されている。ただそれは「大陸文学叢書」の一冊で、その明細は次のようなものだ。

1 ホバート 須川博子訳 『揚子江』
2 蕭軍 小田嶽夫訳 『第三代』
3 マルロオ 小松清、新庄嘉章訳 『上海の嵐』
4 ルウイス 本間立也訳 『長江上流の若者』
5 丁玲 岡崎俊夫訳 『母親』
6 ヘディン 小野忍訳 『馬仲英の逃亡』
7 沈従文 松枝茂夫訳 『辺城』

 
f:id:OdaMitsuo:20190312103558j:plain:h120 (『揚子江』) f:id:OdaMitsuo:20190312103151j:plain:h120(『馬仲英の逃亡』)

 これは『上海の嵐』の巻末広告によるもので、4以降は近刊予定とされているが、それでも全巻出されたようだ。ただ、この「大陸文学叢書」の企画の成立も、繰り返し既述しているように、改造社の社史や全出版目録が刊行されていないことから詳細は不明である。それゆえに推測するしかないけれど、昭和十二年の支那事変を背景とし、中国大陸を舞台とする文学叢書が急遽企画され、翻訳刊行に至ったシリーズだと考えられる。そのこともあり、原題の『人間の条件』(La Condition humaine)が『上海の嵐』に変えられ、「同叢書」に収録されたのであろう。

 マルロオのこの小説は一九三三年に出版され、同年のゴンクール賞を受賞している。これは一九二七年の上海における蒋介石による上海クーデタ、それに関連する武器の入手と殺人、蒋介石の暗殺などをテーマとしていることから、この『上海の嵐』という邦訳タイトルが選ばれたはずだ。訳者はその「あとがき」で書いている。

 蒋介石が共産党との提携により、急にこれの弾圧へと間髪的な見事な体かわしによつて覇権を握つたこの上海クーデタは、現代支那革命史上の最も劇的な一瞬であろう。従つてこの作品の持つドキュマン的要素は非常に強い現実性をもつて読者に迫つてくるのである。然しこの作品の本当の価値をなしてゐるものは、そこに登場してくる人物の、余りにも人間の諸条件を負ひ過ぎたパテティックな姿の活写である。
 或る者は行動に、或る者は阿片に、或る者は性愛にと、それぞれ人間の条件の重圧をのがれようとしてゐる。この、いつ果てるともなく永劫に繰り返される人間の宿命的な悲劇が、ここでは魂の奥底を揺り動かすほどの力強さで描かれてゐる。

 その一例はこの作品の書き出しにも象徴され、「陳(チェン)は蚊帳をもたけるであらうか? それともこのまま蚊帳を通して刺すであらうか? 懊悩は陳の胃袋をぎりぎり締めてゐた」はまったく新しいエクリチュールとされた。それは読者が陳のことを何も知らずにたちまち彼の行動の只中に置かれることを意味していたからだ。その陳の同志としての清(キヨ)は日仏混血児との設定であり、二人は中国共産党と蒋介石の上海クーデタの狭間において、ともに自殺に向かう運命をたどる。
 
 この清(キヨ)の名前は前回もふれた林俊『アンドレ・マルロオの「日本」』でも明らかなように、小松清に由来している。彼は大正時代に渡仏し、マルロオの知遇を得て、その『王道』などを翻訳し、マルロオに由来する行動主義文学論を提起していた。そのような関係から『上海の嵐』にも共訳者として名前を連ねているけれど、実際にこの翻訳を手がけているのは、共訳者の新庄嘉章だと見なせよう。それは検印紙に新庄の捺印しかないことに表われている。
アンドレ・マルロオの「日本」 f:id:OdaMitsuo:20190312162440j:plain:h112(『王道』)

 マルロオの著作の翻訳は小松を抜きにして成立しないはずなのに、そこにはどのような事情が潜んでいるのか。当時の小松の事情を確認してみると、昭和十二年に報知新聞社のヨーロッパ特派員として再渡仏し、十五年六月のドイツによるパリ占領の前日、最後の引揚げ船とされる榛名丸で帰国している

 たまたま手元に『中央公論』の昭和十五年新年特大号があり、そこに小松は「沈黙の戦士(巴里特信)」を寄稿している。これはその前年の八月二七日から九月九日にかけての日記をベースにしての、「巴里は、いま鼎をひつくりかえしたやうな混乱の中に生きてゐる」というほぼリアルタイムの状況レポートである。ドイツがポーランドを侵攻し、パリは大混乱に陥り、地方に避難する人々であふれ、それはパリの日本人たちも同様だった。そのような中で、小松はマルロオに会い、彼が外人部隊の将校を志願し、戦線に出るつもりであることを聞く。そして日本に関連した話で、日支事変と蒋介石、それに『人間の条件』にも話が及び、この機会に応じての日本人とフランス人による文化団体の結成までが俎上にのぼる。それから二日後にまたマルロオに会い、彼の外人部隊将校は流れてしまい、現在はタンク部隊に志願していることを伝えられる。そうして小松はマルロオだけでなく、フランスのブルジョワたちも、饒舌を捨て、黙々とした人種に変わりつつあり、「根づよく覚悟を決めた何百万の執拗きはまる《沈黙の戦士》がぞくぞくと戦線に送りだされてゐる」ことに言及している。このレポートをコアとし、小松は帰国後、改造社から『沈黙の戦士―戦時巴里日記』(昭和十五年十一月)を刊行したようだが、こちらは未見である。

 これらのことからわかるように、小松は昭和十二年から十五年にかけて、フランスに滞在し、特派員、『中央公論』などの寄稿者、『日仏文化』の編集に携わっていたために、『上海の嵐』を翻訳する時間がとれず、新庄がその任に当たったことになる。しかしマルロオと小松の関係からしても、小松の名前を外すわけにはいかないので、共訳者として列記されるに至ったのであろう。新庄のほうはその「あとがき」において、同じ早大仏文科の同窓である桜井成夫の支援を受けたことにふれている。ちなみにこの桜井は本連載531などの桜井鷗村の息子であることを付記しておこう。


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