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古本夜話910 刀江書院、小田内通敏『田舎と都会』、関根喜太郎

 刀江書院から昭和十一年に小田内通敏の『田舎と都会』が刊行されている。その区付けには普及版とあるので、「はしがき」を確認してみると、昭和九年に元版が出されたようだ。しかもそれは「最初日本児童文庫の一篇として書かれたものであるが、今回刀江書院の請に応じ、挿絵や写真を精選し、内容にも新しく手を入れて出すことになつた」との言も記されていた。
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 『日本近代文学大事典』のアルス版『日本児童文庫』の明細を見てみると、確かにその第六二巻が小田内の『田舎と都会』であった。それらの全七七巻に及ぶリストは同じ昭和円本時代に出され、販売合戦となった興文社の『小学生全集』に劣らず、各分野から多彩な人々が召喚されていたことを伝えている。そのような一人として、小田内も加わり、それが刀江書院により再刊となったのである。

f:id:OdaMitsuo:20190405111232j:plain:h120(『日本児童文庫』62、『田舎と都会』)

 小田内については拙稿「郊外に関する先駆的一冊―小田内通敏『帝都と近郊』」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)でも言及しているけれど、あらためてこの『田舎と都会』『帝都と近郊』(大正七年)の児童版だとわかる。それは表紙や口絵写真に「飛行機上より見た東京郊外」が使われていることにも明らかである。しかしここではタイトルに「田舎」が採用されているように、田舎が郷土や農村として、その四季の生活や風景などを通じて描かれ、戦前の日本のバックヤードが農耕社会だったことを浮かび上がらせ、そこから生み出されたものが「都会」であるとの視座を提出している。おそらくその一方において、ナショナリズムに基づく時代の要請としての郷土や農村のイメージ造型も必要とされていたのだろう。
郊外の果てへの旅(『郊外の果てへの旅/混住社会論』) (有峰書店復刻版)

 そのことは前回の『[現代日本]朝日人物事典』における刀江書院の尾高豊作の立項も明らかだ。尾高は昭和五年に小田内たちと郷土教育連盟を結成し、それをベースとして子どもの成長と発達研究を科学的に進めるために、日本児童社会学会と創立し、雑誌『児童』を創刊している。つまり『田舎と都会』はそのような尾高と小田内たちの運動のための教科書的な一冊で、まとまった採用を前提として刊行されたと考えられる。ちなみに巻末広告には東京日日新聞経済部編、及び大阪毎日新聞経済部編による、それぞれの地域別『経済風土記』が並んでいるが、これらもそうした郷土教育のためのシリーズと見なしていいだろう。それらのことから判断すると、尾高は出版界や実業界だけでなく、昭和十年代には教育界でも活躍していたと推測される。またさらに続けて昭和十二年には日本技術教育界会長も務め、野口援太郎の新教育協会にも関わっていたようだ。
[現代日本]朝日人物事典

 だがそれは一方で、刀江書院の仕事から離れざるをえなかったことを意味し、『田舎と都会』の奥付発行者が尾高でなく、関根喜太郎となっているのはその事実を伝えていると思われる、そしてまたこの関根喜太郎が近代出版史のおいては重要な人物で、かつて拙稿「関根康喜=関根喜太郎=荒川畔村」(『古本屋散策』所収)を書いているけれど、もう一度ふれてみる。

古本屋散策

 最初に関根喜太郎の名前を目にしたのはゾラの拙訳『大地』の資料として購入した、やはり刀江書院の池本喜三夫『仏蘭西農村物語』の奥付においてで、このことに関しても拙稿「池本喜三夫と『仏蘭西農村物語』」(同前)を既述している。これは『田舎と都会』の巻末にも一ページ広告の掲載がある。それからしばらくして、出されたばかりの『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版)の最初の部分を読んでいると、「荒川畔村 あらかわ・はんそん」の立項に「本名・関根喜太郎、別名康喜」とあるのを見つけた。生没年、出身地も定かではないが、大正七年頃に新しき村に加わった後、堺利彦の『新社会』や本連載878の土岐哀果の『生活と芸術』などに短歌を投稿し、同九年には日本社会主義同盟に参加し、それとパラレルに出版界に入ったようで、十三年には関根書店として、宮沢賢治の自費出版『春と修羅』を出しているとあった。そこで近代文学館の復刻を見てみると、確かに発行人は関根喜太郎で、関根書店の住所は京橋区南鞘町と記されていた。
大地 日本アナキズム運動人名事典 f:id:OdaMitsuo:20190207212215j:plain:h112

 この関根書店のことはここで初めて知ったのだが、関根康喜のほうは成史書院の『出版の研究』(昭和十四年)の著者として熟知していたといっていい。そこでもう一度『出版の研究』の奥付を確認すると、発行者は関根喜太郎となっていた。確かに両者は同一人物であった。関根喜太郎の出版者としての軌跡を確認すると、最初に手がけていた出版社を関東大震災で失い、それから大正十三年には関根書店として再起し、十四年には辻潤と知り合い、関根を発行人として『虚無思想研究』(復刻版、土佐出版社)、続いて翌年には吉行エイスケをスポンサーとして『虚無思想』を創刊に至る。
f:id:OdaMitsuo:20190405142900j:plain:h120(『虚無思想研究、土佐出版社版)

 昭和に入ってからの関根の出版活動はつかめないけれど、昭和十年頃になると刀江書院に入り、尾高の代わりに発行者となっていることからすれば、この時代に刀江書院の経営をまかされていたと推測していいだろう。そしてその後、再び独立し、成史書院を初め、昭和円本時代をくぐり抜けてきた自らの経験をベースにして、『出版の研究』を著わすに至ったと考えられる。尾高や刀江書院との詳細な関係はつかめないが、この時代の出版界の入り組んだ人脈の一端を覗くことができよう。


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