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古本夜話921 マーガレット・ミード『マヌス族の生態研究』

 ニューギニアで文化人類学のフィールドワークを試みていたのは、本連載916などのイギリス人のマリノウスキーばかりでなく、アメリカのマーガレット・ミードたちも同様だった。ただ前者が一九一四年から一八年にかけてのトロブリアンド諸島であったことに対し、後者は二〇年代からサモア、アドミラルティ、バリなどの南太平洋各地の未開社会のフィールドワークに従事していた。そのサモアに関しては『サモアの思春期』(畑中幸子、山本真鳥他訳、蒼樹書房、昭和五十年)が知られているが、ニューギニアについても、戦前の昭和十八年、金子重隆訳で『マヌス族の生態研究』が、本連載822の岡倉書房から刊行されている。
f:id:OdaMitsuo:20190518120145j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20190518115248j:plain:h120(『マヌス族の生態研究』)

 『文化人類学事典』(弘文堂)によれば、ミードは一九〇一年生まれで、二九年にコロンビア大学で博士号を取得し、近代アメリカ人類学の父とされるフランツ・ボアズに師事し、当時その助手のルース・ベネディクトと親交を持ち、心理学を学び、アメリカ自然史博物館民族学の助手となる。そしてサモア島に赴き、最初の著作『サモアの思春期』、それに続いてアドミラルティ諸島でのフィールドワークから『ニューギニアで成長すること』(Growing up in New Guinea)=『マヌス族の生態研究』を刊行する。
文化人類学事典  Growing up in New Guinea

 その「著者のことば」には彼女が社会科学研究所員のポジションにあることに加え、ボアズとベネディクトへの謝辞が掲げられ、先に示した軌跡と符合するように、ニューギニアの未開民族の研究にいそしんでいたとわかる。その次に置かれた「訳者序」は、昭和十七年五月のロレンガウ(アドミラルティ島)の海軍報道班員などによる記事を引用し、そこでの戦争状況を伝えている。この当時、帝国海軍特別陸戦隊はニューギニア北東のアドミラルティ諸島のマヌス島を無血占領し、「日章旗は南十字星輝く南海に翻つてゐ」たのである。

 アドミラルティ諸島は旧ドイツ領で、第一次世界大戦後はオーストラリアの委任統治下にあり、マヌス島はその主島だった。それらの島々には三万人の原住民がいて、マヌス人は二千人を占め、マヌス島南岸の礁湖中に水上村落を営み、漁業と貿易を主とし、その特有な文化を有する種族とされる。そのマヌス人にしても、「新たに我が指導下に来る彼等原住民」と位置づけられ、この『マヌス族の生態研究』の翻訳にしても、「彼らに臨むに当つてはその風習と日常生活を知悉してかゝらなければならない」という目的で刊行されたことになる。

 それに加え、金子は『マヌス族の生態研究』に関して、次のように述べている。

 マヌス島南岸のペリ村に在住して、住民の生活を綿密に観察記録した著者が、彼等の出産から成人までの肉体的並びに精神的発展を詳述し、併せてその育児教育法をアメリカのそれと比較研究して長所短所を洞察し、以て文明社会殊にアメリカに於ける教育法の血管を指摘してこれが矯正の示唆としたものである。本書を茲に訳出したのは、(中略)マヌス人の生活を知り彼等を如何に理解し如何に扱ふ可きかの参考とするためであるが、同時に(中略)物質文明に毒されたアメリカの学校教育、家庭教育の結果、現代アメリカの中堅層が何を見、如何に考へるか、教育研究家たる著者のこの書を通じて窺ひ知らんがためである。

 また金子は同書がマヌスに関する最良の参考書であり、「アドミラルティ方面に発展せんとする人、現地指導に当られる方々の参考になり得れば幸甚である」とも述べている。この『マヌス族の生態研究』の出版にもマリノウスキー『未開社会における犯罪と慣習』と同様の昭和十七年だから、文化人類学的モチーフ以上に大東亜共栄圏と南進論が相乗し、そのトレンド上に刊行されたと見なしていいだろう。奥付には初版二千部とあるが、その奥付裏を見ると、同書が「岡倉選書」の一冊として出されたことがわかると、それらの出版は私の推測を肯っているようにも思えるので、そのラインナップを示してみる。

1 I・レーベル、池田雄蔵訳 『蘭領東印度』
2 M・イヴオン、延島英一訳 『スターリン治下のソ連邦』
3 C・ピアード、早坂二郎訳 『アメリカの外交政策』
4 C・ガバトン、瓜生靖訳 『東印度諸島誌』
5 Y・フローロフ、延島英一訳 『電話に答える魚』
6 K・ヘーネル、岡崎清記訳 『仏蘭西植民地』
7 M・ミード、金子重隆訳 『マヌス族の生態研究』
8 M.・ダグラス、平山信子訳 『グリーンランド横断記』
9 P・ベルナール、奥好晨訳 『仏印の新経済政策』
10 W・ダンピア、小川芳男訳 『ダンピア航海記』

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 これらは『マヌス族の生態研究』以外は未見だが、いずれ1、4、6は読んでみたいと思うし、ここでしか翻訳されていないのではないだろうか。

 また2と5の訳者の延島英一は本連載74の石川三四郎の近傍にいたアナキストで、『日本アナキズム運動人名事典』にも立項されているが、これらの翻訳と岡倉書房の関係については言及されていない。ここにも大東亜戦争下の出版の謎が秘められているのだろう。そのことに付け加え、ミードに関して知らなかったことが、今世紀に入って翻訳されたヒラリー・ラプスリー『マーガレット・ミードとルース・ベネディクト』(伊藤悟訳、明石書店、平成十二年)に書かれていた。
日本アナキズム運動人名事典(増補改訂『日本アナキズム運動人名事典』) マーガレット・ミードとルース・ベネディクト
 
 同書によれば、ミードとベネディクトはレスビアン関係にあったという。ミードが『精神と自然』『精神の生態学』(いずれも佐藤良明訳、思索社)のグレゴリー・ベイトソンと三回の結婚と離婚を経てきたことは承知していたけれど、これは意外の他はなく、あらためてミードの『男性と女性』』(田中寿美子、加藤秀俊訳、東京創元社)やベネディクトの『菊と刀』(長谷川松治訳、社会思想社)を読んでみるべきだと思わされた。それこそ『菊と刀』はマウス人ならぬ日本人の「生活を知り彼等を如何に理解し如何に扱ふ可きかの参考」のために書かれたからだ。

精神と自然 精神の生態学 男性と女性 菊と刀

 なお『マヌス族の生態研究』にはマヌス島でのフィールドワークの詳細や写真も収録されていることも記しておこう。

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