出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話922 マルセル・モース『太平洋民族の原始経済』と山田吉彦

 マリノウスキーは『西太平洋の遠洋航海者』などで、ニューギニアのトロブリアンド諸島におけるクラ、前回その名前を挙げたブランツ・ボアズは北米インディアンに見られるポトラッチという贈与の慣習を報告している。これらを参照しながら、「フランス人類学の父」と称されるマルセル・モースは一九二五年に『贈与論』と題する論文を発表する。
西太平洋の遠洋航海者

 これは本連載917でふれておいたように、有地亨訳『贈与論』(勁草書房、昭和三十七年)として刊行され、その改訳もモース『社会学と人類学Ⅰ』(弘文堂、同四十八年)に収録されている。そこに寄せられた「マルセル・モース論文集への序文」で、レヴィ=ストロースは「マルセル・モースの教示ほど、いつまでも秘教的魅力を失わないものはすくなく、また同時にこれほど影響を及ぼしたものもすくない」と始め、フランスの社会学、人類学だけでなく、「民族誌学者はだれひとり、かれの影響を受けなかったとは言いえまい」と述べていた。

f:id:OdaMitsuo:20190415114304j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20190520115442j:plain:h113

 さらにモースが社会学研究会に結集するジョルジュ・バタイユやミシェル・レリスや岡本太郎たちにも大きな影響を与えたことも明らかになってのことだとも思えるが、今世紀に入って吉田禎吾、江川純訳のちくま学芸文庫 (平成二十一年)森山工訳の岩波文庫版(同二十六年)にも新訳刊行された。またモース研究会『マルセル・モースの世界』 (平凡社新書、同二十三年)、最近では森山編訳『国民論』(岩波文庫)も出されるに至っている。
ちくま
贈与論(ちくま学芸文庫版) 贈与論(岩波文庫版)マルセル・モースの世界  国民論

 だが『贈与論』は戦前の昭和十八年に、本連載706の日光書院から山田吉彦訳で、『太平洋民族の原始経済』として刊行され、それは「古制社会に於ける交換の形式と理由」というサブタイトルが付されている。ここでモースは先述のマリノウスキーのクラやボアズのポトラッチなどに象徴される贈与の慣習を含め、ポロネシア、メラネシア、西北アメリカなどの原始社会における贈物の「広汎な研究の一断片」を提出している。それに大東亜共栄圏と南進論もクロスし、翻訳タイトルが選ばれたのであろう。その研究を貫く視座は傍線が付された次の一文に集約されていよう。原文はイタリック体だが、引用は傍線の代わりにゴチック体とする。

 それは「遅れた、若しくは古制型の社会に於て、貰つた贈物には義務的に返礼をせねばならなくさせる律掟と経済上の規則は何であるか。贈られたものの中には、貰つた人にお返しをさせるやうにするどんな力が存在してゐるのか」とある。そうして贈与が宗教、法、道徳、経済などの様々な領域に還元できない「祝祭」と「競覇型の全的給付制」として位置づけられるに至る。

 だがここでは『太平洋民族の原始経済』にこれ以上踏みこまず、ラフスケッチにとどめ、その訳書にまつわる事柄に言及したい。まずこの訳書は「A Monsieur Marcel Mauss et aux camarades de classe」、すなわち「マルセル・モース氏と教室の仲間たち」に捧げられている。訳者の山田吉彦は戦後になって きだみのるを名乗り、昭和四十六年には読売新聞社から『きだみのる自選集』 全四巻も出されているが、戦前の山田をたどってみる。彼は昭和九年にフランス政府留学生として渡仏し、ソルボンヌ大学で社会学と民族学を専攻し、マルセル・モースに学び、同十四年に大学を中退して帰国し、アテネ・フランセの語学教師となっている。その四年後に『太平洋民族の原始経済』は翻訳されたことになる。
f:id:OdaMitsuo:20190520152051j:plain:h115

 その「凡例」に「この訳書には著者の序文がつく筈になつてゐた。しかし今次の戦乱のためにこのことは果されなかつた」とある。これは山田が帰国後、パリはドイツ占領下で、モースはユダヤ系のためにすべての公職から追放されたことによって、音信不通の状態に置かれていたことを伝えているのだろう。その影響は「後書」にも見られ、山田はほとんどを、ソルボンヌ大学内の高等研究実習院でのモースの宗教社会学の講義とその内容、学生たち、彼との個人的会話などに費やしている。

 それはモースの言によれば、オックスフォード時代に、本連載でもお馴染みの高楠順次郎と親しく、日本は日露戦争を始め、戦費調達のために、奈良の五重の塔を売ってもよいとのことで、モースがルーヴル博物館に話を持ちかけたが、ルーヴルはわずかの金を惜しんで成立しなかったけれど、日本にとってはそのほうが幸いだったと。一九〇五年頃にユダヤ系フランス人のモースと高楠、ドイツを出自とするマックス・ミューラーが出会っていたのだ。さらにフレイザーとも。このエピソードはきだみのるの『人生逃亡者の記録』 (中公新書、昭和四十七年)でも語られている。さらにモースはかつて自分のところで勉学した宇野円空、赤松知城、松本信広の近況をも訊ねたという。
f:id:OdaMitsuo:20190521000611j:plain:h110

 それらは後述するつもりでいるので、ひとまずおき、モース教授のことだけでなく、学生たちに目を転じてみよう。彼らは二十人ばかりの男女で、人間博物館に勤務している者が多かった。シベリア諸民族のシャマニスム研究レヴッキ―、グリンーランドのエスキモーの間で冬を過ごしたヴィクトール、エチオピアで暮らしたグリヨルやディテルラン夫人、朝鮮民俗に関心を持つボネ夫人、コロンブス以前のアメリカ文化に注視するレーマン、その他にシェフナー、ポール嬢、レーデラー夫人、プチ・ジャンなどの旅行家たちもいて、クラスの中心を占めていた。

 これらの人々の詳細なプロフィルは不明だが、山田を始めとするモースの日本人の弟子たちのことを考えれば、それぞれが研究者としての業績を残しているように思われる。両大戦間のパリは、本連載744の中谷治字二郎を含めて、日本人の考古学、民族学、人類学、社会学のメッカだったように思われるし、これも同125などでも取り上げておいたが、後にスメラ学塾に結集する「パリの日本人たち」の一人が山田でもあった。先の『人生逃亡者の記録』 において、スメラ学塾は出てこないが、ジュネーブで、本連載113などの藤沢親雄と一緒だったことにふれているし、この時代の山田のポジションは興味深いというしかない。


odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら