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古本夜話923 リーゼンバーグ、太平洋協会訳『太平洋史』

 続けてマリノウスキー『西太平洋の遠洋航海者』、マーガレット・ミード『マヌス族の生態研究』、マルセル・モース『太平洋民族の原始経済』などの太平洋民族に関する文化人類学や社会学の著作にふれてきた。また以前にも本連載584などで太平洋協会とその出版物、同587で矢内原忠雄『南洋群島の研究』、同678で室伏高信『南進論』、同682でダイヤモンド社『南洋地理大系』、同687で東邦社『南方年鑑』を取り上げてきた。文化人類学の研究書の翻訳はいずれも昭和十七、八年に出されているけれど、それらも太平洋協会を始めとする出版物と併走していたことはいうまでもあるまい。

西太平洋の遠洋航海者(『西太平洋の遠洋航海者』) f:id:OdaMitsuo:20190518115248j:plain:h115(『マヌス族の生態研究』) 南洋地理大系 

 たまたまそれらをトータルに表象するような一冊を入手したので、ここで書いておきたい。それは昭和十六年三月に朝日新聞社から刊行されたリーゼンバーグの太平洋協会訳『太平洋史』である。そこには『太平洋問題の再検討』という近刊の投げ込みチラシがはさまり、蠟山正道の「大東亜広域圏論」を巻頭に置き、続けて三木清「東亜新秩序の歴史的哲学的考察」など七編が収録されているとわかる。『朝日新聞社図書総目録』を確認してみると、これも太平洋協会編とあり、両書は姉妹書のようなかたちで出されていたことになる。いってみれば、タイトルに示されているように、昭和十六年は日米開戦を迎えつつあり、「太平洋問題の再検討」が迫られていたことを浮かび上がらせていよう。

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 そのことを象徴するが如く、『太平洋史』の表見返しには太平洋におけるクックの航行図、裏見返しにはマゼラン航海図が転載され、太平洋そのものの世界における構図、及びその覇権のよってきたるべき歴史を知らしめるような役割を伝えている。

 「訳者はしがき」は太平洋協会常務理事としての鶴見祐輔名で書かれている。そこで鶴見は著者のリーゼンバーグが探検家にして、海の権威者で、『太平洋史』は資料に基づき、探検家、開拓者の業績を叙述し、太平洋史の全貌を明らかにせんとする労作だと認めながらも、次のように述べている。「今や西洋の没落と共に世界史の中心が太平洋に移行せんとする大勢顕著なる秋」を迎え、「太平洋が如何にして世界史の上に登場して来たか」、「その探検開拓に活躍したる欧米各民族が日本の太平洋国策に如何なる影響を及ぼしたか」を明確に把握することが必要であり、そのためにここに訳出したと。そしてさらに付け加えている。

 勿論この本にも多くの不満はある。太平洋の開拓と称しつゝも、実はマゼラン海峡を通過して来た人々の事蹟を中心として描いてゐるが故に、例へばポルトガル人、オランダ人等のマラッカ海峡を拠点としての活躍や、十九世紀における西欧諸列強の帝国主義的活動については触れるところが少い。殊にこの書の最大の欠点は、ヨーロッパ人種の立場において書かれた歴史であるため、東洋人、即ち日本人、支那人、印度人等の東南アジアを舞台とする活動について全然触れてゐないことである。しかしながら、これらの研究を中心にした太平洋の新しき歴史を書くことは日本を中心とするる太平洋の新秩序の建設と共に、今後われゝゝに残された一大課題である。

 本連載584で既述しておいたが、太平洋協会は昭和十三年に鶴見によって設立され、ここで述べられているように、「日本を中心とするる太平洋の新秩序の建設」と「太平洋の新しき歴史を書くこと」を目的としていたと考えていい。それは太平洋問題に関する総合的なシンクタンクの形成を意図し、必然的にアカデミズムと提携し、雑誌や書籍の出版も兼ねることによって、これも同585で示しておいたが、多くの出版社とコラボレーションしていく。それには朝日新聞社も加わっていたことになるし、大東亜戦争と大東亜共栄圏構想と併走し、矢野暢が『日本の南洋史観』(中公新書)でいっているように、「昭和十年代は『南進論』の黄金時代」を迎え、太平洋協会の歩みとクロスしていったと思われる。
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 だがその全貌は明らかにされておらず、この『太平洋史』の翻訳は太平洋協会調査部の関嘉彦、中野博、上原仁の手になるとされる。やはり同584で、同調査局は平野義太郎を局長とし、関の名前も挙げておいたけれど、中野や上原はここで初めて目にする名前で、この二人にしてもどのような人物であろうか。かつてそこで「大東亜共栄圏は地政学をベースとして、人類学と政治学と民族学が三位一体となって推進される」と書いたが、それに左翼からの転向者も含まれることは自明だし、これらの三人もそうした関係者だったのではないだろうか。

 そしてこれは鶴見俊輔がどこかで語っていたし、黒川創『鶴見俊輔伝』(新潮社)でも明らかにされているが、戦後を迎え、『思想の科学』はこの太平洋協会の取次口座を利用して創刊されることになるのである。
鶴見俊輔伝

 なお関は河合栄治郎の弟子で、昭和二十一年に社会思想研究会、後の社会思想社設立に参加し、出版部取締役を経て、東京都立大教授、民社党の中枢人物となっている。


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