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古本夜話927 生活社「ギリシア・ラテン叢書」と田中秀央『ラテン文学史』

 前回はレヴィ・ブリュルの山田吉彦訳『未開社会の思惟』を取り上げながら、そこに山田が献辞を捧げていたジョセフ・コットのほうに紙幅を多く割いてしまった。それは近代文学史や出版史において、コットが創立したアテネ・フランセが果たした役割は想像以上に大きなものがあったのではないかと思われたからだ。山田だけでなく、本連載198の関義、同849の坂口安吾も在籍していたし、その他にもこの連載に登場する多くの人々がフランス語を学びに通っていたにちがいない。それにもかかわらず、詳細なアテネ・フランセ史やコットの評伝は出されていないことによっている。

未開社会の思惟 (『未開社会の思惟』)

 またこれも前回既述しておいたが、アテネ・フランセがフランス語のみならず、ギリシャ語、ラテン語も教えていたことも重要な事柄のように映るし、それはコットの他に誰が受け持っていたのかも気にかかる。実は企画の成立事情に加え、何冊刊行されたのかも不明なこともあり、言及してこなかったが、大東亜戦争下で本連載131などの生活社から、「ギリシア・ラテン叢書」が企画され、その内容見本も出されている。
f:id:OdaMitsuo:20190616134459j:plain (「ギリシア・ラテン叢書」、『エリュトラー海案内記』)

 この内容見本が生活社のどの出版物にはさまれていたのかは失念してしまったけれど、本連載913のフレイザー『金枝篇』の間にずっと保管してきたのである。それは十ページに及ぶもので、ギリシア文学がアイスキュロス『悲壮劇』(田中秀央他訳)歴史、地誌、科学がアッリアーノス『アレクサンドロス出征記』(栗野頼之祐訳)、哲学、思想、宗教がエウセビオス『教会史』(有賀鐵太郎他訳)などを始めとして五十点、ラテン文学、言語がアップレーイウス『変形譚』(服部英次郎訳)、歴史、地誌、科学がウィトルーウィウス『建築書』(森田慶一訳)、哲学、思想、宗教がアウグスティーヌス『三一神論』(原田信夫他訳)など、三十余点が刊行予定としてラインナップされている。

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 その監修は京都帝大教授田中秀央、顧問が同落合太郎、編輯委員は青木巌、高津春繁、京都帝大助教授泉井久之助、同講師服部英治郎、松本千秋、同支社大学教授有賀鐵太郎、東京帝大助教授神田盾夫、日本大学教授呉茂一、広島文理大助教授高田三郎、東京文理大講師田中美知太郎、龍谷大学教授長澤信壽となっている。もちろん彼らも訳者を兼ねていて、その他にも戦後に著名な訳者と書名を挙げておけば、クセノポーン『アナバスィス』は寿岳文章、ピローン『信仰と理性』は井筒俊彦、ホラーティウス『詩篇』は西脇順三郎などである。

 これはいうまでもないことだが、私はギリシア・ラテンの古典に通じているわけではない。だがそれらの訳者たちとそこに挙げられた書名を見ただけでも、壮観だと思うし、これが大東亜戦争下に企画された叢書だとは信じられない気がする。監修、顧問、編輯委員たちのポジションから考えても、これが京都帝大を中心とするギリシア・ラテンの古典研究者と生活社のタイアップ企画と見なせよう。

 実際に監修の田中秀央は明治十九年生まれで、四十二年に東京帝大文科を卒業し、先述したように京都帝大教授を務め、『希臘語文典』(岩波書店、昭和二年)、『新羅甸文法』(同、四年)を出している。また顧問の落合太郎との編著として、『ギリシア・ラテン引用語事典』(同、十二年)も刊行され、この二人がどうして生活社版「ギリシア・ラテン叢書」の監修と顧問にすえられているのかを了承することになる。
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 前の二冊は言語学者の川本茂雄の旧蔵書と推測されるもので、後の一冊も編集資料として手元に置いているが、それこそ半世紀ほど前に田中の『ラテン文学史』を購入している。そのきっかけは澁澤龍彥が貴重な文学史の一冊だと書いていたのを読み、その直後に古本屋で見つけたからで、近年名古屋大学出版会から復刊されたはずだ。「ギリシア・ラテン叢書」の一冊として、田中の『希臘・羅甸文学史』が予告されていた。あらためて『ラテン文学史』の「緒言」を読んでみると、次のような文言が見える。

 ローマ文学即ちラテン文学は近代西洋文学の直接の根源と背景とをなせるものであうって、よし直接に古代ギリシア文化にふれ得ない人でも、古来、ラテン文学を通してギリシア文学を味ふと共に、ラテン文学をも鑑賞してゐたのである。ギリシア文学とラテン文学とは切つても切れぬ姉妹関係にあるので、その一方の研究のみでは、西洋文化を内容において將又形式において完全に理解することは出来ぬであらう。この度、生活社が西洋古典文学の原典に拠る邦訳といふまことに有意義なる叢書の刊行計画をたてられるにあたり、その相談に預れる不肖として、まことに僭越ながら、その一般的紹介の意味で、簡単な古代ギリシア文学史とラテン文学史との姉妹篇を世に送ることにした。

 ここに図らずも、「ギリシア・ラテン叢書」の企画の意図が語られていることになる。ただこれらの文言が「皇紀二千六百三年三月二日」付で記されていることにも留意すべきだろう。

 結局のところ、『希臘・羅甸文学史』はまず『ラテン文学史』が出され、姉妹篇としての『古代ギリシア文学史』は未刊のままになったと思われる。巻末の「ギリシア・ラテン叢書」の既刊として、『ラテン文学史』の他に、ヘロドトスとトゥーキュディデースの『歴史』(いずれも青木巌訳、上下)、キケロー『ラエリウス(友情論)、大カトウ(老年論)』(長澤信壽他訳)が挙げられている。とすれば、昭和十八年五月までに四点六冊が刊行されたことは確かだが、その後の続刊は確認していない。


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