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古本夜話932 内田老鶴圃、『チ氏宗教学原論』、内田魯庵訳『罪と罰』

 前々回の『自殺論』の訳者として、東北帝大で社会学講座を担当していた鈴木宗忠の名前を挙げておいたが、それに先立つ大正五年に、『チ氏宗教学原論』を早船慧雲と共述刊行している。これは内田老鶴圃からの出版で、手元にあるのは菊判上製四七〇余ページの裸本、大正八年の再版である。
f:id:OdaMitsuo:20190722170248j:plain:h120(『チ氏宗教学原論』)

 この本を教えられたのは本連載911などの比屋根安定訳によるC・P・ティーレ『宗教史概論』(誠信書房、昭和三十五年)においてだった。「チ氏」=ティーレは一八三〇年オランダに生まれ、ライデン大学で宗教学、宗教哲学を講じ、本連載でもお馴染みのマックス・ミュラーとともに宗教学の創立者とされる。『宗教史概論』は七七年、『宗教学原論』は九七年の刊行で、後者が『チ氏宗教学原論』に当たる。しかしどのような事情なのか、平凡社の『世界宗教大事典』(平成三年)にあっては、ミュラーは立項されているのに、ティーレの名前は見出せない。
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 それらはともかく、『チ氏宗教学原論』は英訳からの重訳で、前編が「宗教発達論」とされ、宗教学の概念と方法、宗教の発達が論じられ、後編の「宗教本質論」では宗教の恒存的要素としての表現と成分、つまり言語や行為と情緒、概念、情操への言及となる。だがこれらの翻訳に関して、意訳、省略、構成変更、抄訳処理を施しているために、「吾人は此翻訳を共訳としないで、共述とした」との断わりも記されている。

 このような「共述」によって『チ氏宗教学原論』を刊行した目的は「之に依つて適当な宗教学教科書を提供」することにあり、その事情として、「我国には一般宗教学を教ゆる学校を随分沢山にあるやうだけれど、適当な教科書もないので困つて居る」ことが挙げられている。この述懐から推測すれば、『チ氏宗教学原論』は大学の教科書として刊行されたはずで、早船も鈴木と同様に東北帝大の教授だったのではないだろうか、そのように考えてみると、内田老鶴圃から出版された経緯が理解できるように思う。

 『出版人物事典』から内田老鶴圃の創業者を引いてみる。

 [内田芳兵衛 うちだ・よしべえ]生年不詳~一八九八(不詳~明治三一)内田老鶴圃創業者。福井県生れ。紙漉の老舗内田一族という。一八七四年(明治七)ころ上京、日本橋西河岸に絵草紙屋と和紙仲介業を開き、書籍の仲買業も行っていたが、八〇年(明治一三)『老鶴万里の心』という本を出版、店の名前を書肆内田老鶴圃とした。八七年(明治二〇)日本橋大伝馬町に移り、そのころから中等教科書や学術書、参考書の出版で名を売った。東京書籍出版営業者組合評議員などをつとめた。

 確かに『チ氏宗教学原論』の奥付住所は日本橋区大伝馬町二丁目とあるし、この記述から同書も学術書兼教科書として刊行されたことがうかがわれる。だが近代文学史において、内田老鶴圃の名前が印象づけられるのは明治二十五年の内田魯庵訳、ドストエフスキー『罪と罰』である。これは丸善に入荷したヴィゼッテリー社の英訳からの重訳で、『明治翻訳文学集』(『明治文学全集』7、筑摩書房)に収録され、現在でもその翻訳を読むことができる。
f:id:OdaMitsuo:20190722210112j:plain:h120 明治翻訳文学集

 そしてそこには『文学界』同人の北村透谷や島崎藤村たちを驚かせ、深遠な影響を与えたシーンが描かれている。それはラスコーリニコフと下宿の女中の会話である。女中はあなたは利口なのにごろごろしてばかりで、お金になることは何もしていないという。それに対して、彼は答える。会話の部分だけを抽出してみる。

 『自己(おれ)だツて為てゐる事がある』(中略)
 『何を?』
 『何をツて、或る事をサ』
 『どんな事?』(中略)
 『考へる事!』(中略)
 『考へる事ツて、それがお金子(かね)になるンですか』

 ここに『考へる事』をしている青年が突然出現したことになるし、これはその後、近代文学のコアを形成し、様々に変奏されていくことになろう。

 この『罪と罰』は丸善に三部入荷し、他の二冊は森田思軒と坪内逍遥が購入した。内田は長谷川辰之助=二葉亭四迷の校閲を求め、明治二十五年十一月に第一巻、翌年二月に第二巻が刊行された。だが世評が高かったにもかかわらず、売れ行きは芳しからず、第二十章で中絶してしまったのである。『明治翻訳文学集』の口絵写真には『罪と罰』第一巻の書影が掲載され、表紙には内田老鶴圃という版元名がはっきりと記されている。しかしその翻訳刊行に至る事情と経緯に関してはまったく判明していないのである。

 なお内田老鶴圃は創業者の内田芳兵衛の死後、三代目内田作蔵社長の長女と結婚した内田篤次が養嗣子として四代目を引き継ぎ、昭和十四年には『採集と飼育』を創刊し、自然科学関係の雑誌、書籍の出版に力を注いだとされる。だがその全出版目録も社史も刊行されていないはずで、戦後も含め、その全貌は定かでない。


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