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古本夜話933 シルヴァン・レヴィ『仏教人文主義』とマルセル・モース

 本連載929のデュルケム『社会学的方法の規準』の「訳者前がき」において、昭和二年に田辺寿利が関係しているフランス学会と東京社会学研究会の共催で、デュルケム十周年祭が開かれ、そこで当時東京日仏会館フランス学長のシルワ゛ン・レヰ゛、宇野円空、赤松秀景、それに田辺の四人がデュルケムの様々な学問的業績に言及したと述べている。
f:id:OdaMitsuo:20190617222817j:plain:h120(創元社)

 実はその翌年にシルワ゛ン・レヰ゛=シルヴァン・レヴィの『仏教人文主義』が刊行され、レヴィはコレージ・ド・フランス教授、日本帝国学士院客員との肩書が付され、高楠順次郎閲、山田龍城訳とある。これは「印度と世界」を始めとする六編からなり、最後の「合法人文主義」が「ダッカ大学に於ける講演」と記されているように、その話体訳からして、ほとんどが講演草稿だったと思われる。

 そのことが作用してか、本文は一八五ページだが、菊判、皮装の上製、函入のフランス学術書の体裁の造本で、口絵写真としてレヴィの「小照及筆蹟」も掲載に及んでいる。奥付には日仏会館出版代表者として前出の赤松秀景の名前があり、発行者として高楠正男、発行所は大雄閣書房とある。本連載505で示しておいたように、高楠正男は高楠順次郎の息子、大雄閣書房はその出版社で、おそらく父が校閲したことから、その発売を引き受けたのであろう。それゆえに正確にいうならば、日仏会館が発行所で、大雄閣書房は発売所と見なすことができよう。

 私がシルヴァン・レヴィの名前を初めて知ったのは、拙稿「青蛙房と『シリーズ大正っ子』」(『古本探究Ⅱ』所収)や本連載507などの岩野喜久代の『大正・三輪浄閑寺』においてだった。彼女は嫁いだ三輪浄閑寺の新古のあらゆる仏教書収集の中で、「幻の辞典」とされるフランス語の仏教辞典『法宝義林』を見出して驚喜した。学者たちの間でもほとんど見る人がいない『法宝義林』について、知るところを書いている。
古本探究2

 大正八年に万国学士院会議がパリで開かれ、日本から高楠先生が出席された。当時フランスは東洋学の世界的権威と自負していて、印度、中央アジアなどで発掘された梵本の解読も進み、シルヴァンレヴィ教授のように、西域の未知語亀玆(クツチヤ)語を自由に解される学究もいられたから、日本の碩学高楠博士を迎えて、フランス語の仏教辞典編纂の企画が、セナール学士院長やレヴィ教授をまじえて、商議された。
 高楠先生はその時、(中略)仏教研究の最も完成しているのは日本であるから、日本語を元にしなくては、真の仏教辞典は出来ぬと力説され、レヴィ教授もセナール院長もこれに同意されて、およその方針が決まったという。
 それから関東大震災をすぎて、昭和二年にレヴィ教授が日仏会館長になって日本に来られたのを機会に、日本とフランスの学者陣の協力の下、編纂が開始された。

 この『法宝義林』は高楠が亡くなる戦前にA・B・Cの三巻が上梓され、戦後の昭和四十二年にDが出された。岩間は山田龍城の第五巻の刊行はまだ見当がつかないという証言を挙げ、最後の巻が出るまでに百年を要するのではないかと述べている。その後も『法宝義林』の刊行は続いているのだろうか。

 それはともかく、この岩間の言及によって、レヴィをめぐる日本人人脈と『仏教人文主義』の出版の背景が浮かび上がってくるように思われた。しかし今世紀に入ってのことだが、モース研究会『マルセル・モースの世界』(平凡社新書、平成二十三年)が出るに及んで、そこには高島淳「『供儀論』とインド学―もう一人の叔父シルヴァン・レヴィ」が収録され、先述した写真とともに、『法宝義林』のことも含め、レヴィの日本との関係にふれている。
マルセル・モースの世界  

 だがここで特筆すべきはモースの最初の重要な著作『供儀論』はレヴィのサンスクリット文献研究に端を発していることだ。モースは叔父のデュルケムの勧めにより、パリに出て高等研究実習院のレヴィの指導を受け、その結果、彼がモースにとって「第二の叔父」となったのである。それはレヴィがデュルケムと同様にユダヤ人であり、そのこともモースに大きな影響を与えたと考えられる。それらの具体的な事情は高島の論稿を見てほしいが、『マルセル・モースの世界』において、巻末に「モース関連名鑑」が付され、そこにはレヴィのプロフィルが高島自身によって提出されているので、それを示しておく。

 レヴィ、シルヴァン (Sylvain Lévi 1963-1935) 
 インド学者。コレージュ・ド・フランス教授、日仏会館初代館長。日本においては特に大乗仏教のサンスクリット原典の研究で知られているが、幅広い関心の中心には「歴史なきインド」に歴史を返すという心意気があったのではないかと思われる。デュルケムと親交を結び、モースの師であった。

 なおここに見える「歴史なきインド」云々は、『仏教人文主義』所収の「印度と世界」にうかがわれるし、また彼の死に際し、高楠がラジオで追悼講演しているという。


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