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古本夜話935 岡茂雄、『民族』、渋沢敬三

 『民族』は柳田国男と民族学を志向していた岡正雄の出会いをきっかけとして、大正十四年十一月に創刊され、昭和四年四月に休刊となった。休刊に至る経緯は 『柳田国男伝』の「雑誌『民族』とその時代」に詳しいが、創刊のきっかけとなった岡と柳田の不協和音によるものだった。それはいうなれば、もちろん両者の性格もあるけれど、岡の民族学と柳田の民俗学の違和から生じたと見なせるかもしれない。

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「雑誌『民族』とその時代」はそれらも含めて、創刊から休刊までのプロセスを丁寧にたどり、編集者としての柳田や岡の姿も伝えている。だが『民族』の奥付にずっと記載されていた編輯人岡村千秋、発行者岡茂雄、発行所民族発行所に関してはラフスケッチに終わっている。私はかつて拙稿「岡村千秋、及び吉野作造と文化生活研究会」(『古本探究Ⅲ』所収)で、岡村のプロフィルと柳田の裏方としての出版代行者であったこと、また「人類学専門書店・岡書院」(『書店の近代』所収)において、岡茂雄に言及している。

古本探究3  書店の近代

 しかし岡茂雄の『本屋風情』 (中公文庫)や『閑居漫筆』(論創社)などでも、『民族』に関しての証言はほとんど見られず、私もふれてこなかってけれど、『民族』にあっても、この二人が実際の編集や製作、販売を担っていたことは確実で、柳田の出版代行者だった。ちなみに岡村は柳田の長兄松岡鼎の次女と結婚し、これも柳田の世話で博文館に入り、『民族』創刊の頃はその編集者だった。岡正雄は岡茂雄の弟で、しかも郷里の先輩の岡村を通じて、柳田と出会ったのである。

本屋風情 f:id:OdaMitsuo:20190804114900j:plain:h110

 岡茂雄のほうはあらためて『出版人物事典』の立項を引こう。
出版人物事典

 [岡 茂雄 おか・しげお]一八九四~一九八九(明治二七~平成元)岡書院創業者。長野県生れ。陸軍幼年学校・士官学校卒。一九二〇年(大正九)軍籍を離れ、島居龍蔵に師事し人類学を志す。関東大震災後、文化人類学関係の岡書院、山岳関係の梓書房を創業。南方熊楠に親炙。『南方随筆』などを出版、柳田国男の『雪国の春』や金田一京助の『アイヌ叙事詩 ユーカラの研究』などの名著も出した。また『山日記』『山』、人類学誌『ドルメン』などを創刊。著書『本屋風情』で第一回(昭和四九)日本ノンフィクション賞を受賞。「本屋風情」は自らを卑下したものではなく、柳田国男にそういわれ、愛着さえもつようになったからだという。

 『南方随筆』 に関しては本連載37で取り上げているし、他の出版物にしても、いずれ機会を得て書いてみたいが、ここでは『民族』のことに限りたい。民族発行所は創刊号において東京都麹町区上六番町、最終号は神田区駿河台北早賀町となっているが、いずれも岡書院の住所である。

f:id:OdaMitsuo:20180109142259j:plain:h120(沖積舎復刻版)

 前者は河東碧梧桐に書いてもらった岡書院の看板を入口に掲げた創業地で、岡は『本屋風情』 の中で、碧梧桐から「私が書く看板を掲げた本屋は、たいがい潰れるが、それでもいいですか」といわれ、「かまいません」と応えたが、「何とそのとおりになったのは笑止」だと書いている。

 後者は明治大学前の一階が「薄汚い土器や埴輪などを窓にならべた、変わった本屋」で、内田魯庵の慫慂による人類学関係図書の専門書店、二階が岡書院の仕事部屋になっていた。つまり民族発行所、編集室であり、「天井は低く、備品万端粗末」で、昼食は来客も「あんぱんとそば」という「御馳走」に限られていたけれど、いつも研究者たち集い、出版企画においても、「掛け替えのない温かな産小屋」となっていたのである。

 さて『民族』に関してだが、岡茂雄は『本屋風情』 の中でダイレクトに言及しておらず、「渋沢敬三さんの持ち前とそのある姿」において、遠回しに語られているだけだ。岡は柳田国男に渋沢を訪ねるようにいわれる。それは大正十四年の暮れで、『民族』創刊号の発行は同年十一月一日であったから、その後のことだったと推測される。柳田の「編輯者より」で、当初は隔月刊予定、「新春早々の刊行」と予告されていたことからすれば、取次、書店ルートの販売入金で製作費をまかなうことはできず、それをどこからか調達する必要に迫られていたはずだ。

 そこで柳田は岡に「会えば、わかる」と命令調で渋沢を訪ねるようにいい、岡はしぶしぶ第一銀行本店に渋沢に会いに出かけた。すると渋沢はいきなり「私はあなたのお仕事に敬意を表しています。(中略)柳田さんたちの雑誌『民族』を続けられるそうですね。手伝わせていただきます」といったのである。それで岡は「柳田先生と話があったんだな」とわかり、「柳田さんたち」の中には渋沢と二高で同級だった編集委員の有賀喜左衛門、後輩で同じく山岳部の岡正雄も含まれているのではないかとも考えられた。つまり『民族』のパトロンとは渋沢だったことになる。『柳田国男伝』に引かれた岡の証言によれば、それは「一万円にものぼる資金援助」だったとされ、この二人の出会いによって、渋沢の「アチック・ミューゼアム」(後の「日本常民文化研究所」)も発足するに至ったという。

 しかもそのような渋沢が控えていたにしても、『民族』の休刊は避けられないもので、資金的にも耐えられなくなったことが、岡正雄による「『民族』の休刊」(第四巻第三号)告知にも書きこまれている。

 「民族」は又可成りの経済的犠牲を耐えて参りました。之は最初から覚悟して居たことですから、今更休刊の理由とすることは出来ないかもしれませぬが、然し休刊理由の四分の一の理由として、こゝに挙げることは又恐らく事の真相を語るものであります。

 それは『民族』が出版ビジネスとして成立しなかったことを意味していよう。その事実はその時代の民俗学や民族学、人類学や考古学書の出版がまだ採算に乗るほどの読者を得られなかったことを告げているし、岡茂雄もまた『本屋風情』 の最終章「落第本屋の手記」を、「商道に徹することの出来なかった私は、本屋風情の資格さえなかった」と結んでいることも付記しておこう。


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