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古本夜話936 岡正雄とバーン『民俗学概論』

 前回、兄の岡茂雄を取り上げたこともあり、続けて弟の岡正雄にもふれておくべきだろう。

 岡正雄は『民族』の編集に携わりながら、「異人その他」(第三巻第六号)を寄稿している。これは「古代経済誌研究序説草案の控へ」というサブタイトルを付した四十ページに及ぶ論稿である。この論稿は市に山人、異人、山姥、鬼が出現し、その市行事の何らかの構成に参ずるという六つのフォークロアを示し、交易の相手たる「異人」の問題に言及していく。それらの交換や交易は功利的視点だけで解釈できないし、当事者間の相互義務から経済的恣意のままに行なわれていなかった。そしてこのようなフォークロアは古代の経済生活の一面を伝えているし、それゆえに文化史的方法としてのフォークロアの可能性を浮かび上がらせ、岡のいうところの歴史的民族学へとリンクし、まずは原始交易における椀貸伝説や無言貿易がたどられていくのである。

 この『異人その他』をタイトルとする一冊がほぼ半世紀後に言叢社から刊行され、さらにその十五年後に、収録論文は減りはしたけれど、やはり同タイトルで、岩波文庫化されている。後者の編者の大林太良はその「解説」で、「『異人その他』はいわば岡民族学の原点であて、その後展開したさまざまな考えがすでに含まれている」と述べ、そこに「水平的な神出現の表象ないしマレビトの問題」を見ている。
f:id:OdaMitsuo:20190805105324p:plain:h115 異人その他

 「異人その他」はこのように再読、評価され、寡筆ながらも日本の民族学に多くの影響を与えてきた岡のコアを伝えているが、それとパラレルに翻訳が進められ、昭和二年に出されたバーンの『民俗学概論』のほうはほとんど忘れられているように思える。だがそれは原題をTHE HANDOBOOK OF FOLKLOREとするもので、テーマや訳語から考えても、『民間伝承概論』という邦訳タイトルも可能であろう。

 柳田国男監修『民俗学辞典』 (東京堂、昭和二十六年)の「民俗学史」の昭和時代に、「ことに岡正雄の訳出したバーン女史の『民俗学概論』は、この学問に概論がなかった時代だけに裨益する所が大きかつた」とある。それゆえにこの翻訳出版は昭和九年の柳田国男の『民間伝承論』(共立社)の刊行、翌年の民間伝承の会とその機関誌『民間伝承』の創刊へとリンクしていったと考えられる。後者に関しては拙稿「橋浦泰雄と『民間伝承』」(『古本探究Ⅲ』所収)を参照してほしい。

民俗学辞典 f:id:OdaMitsuo:20190805140653j:plain:h110 古本探究3

 手元にあるバーンの『民俗学概論』は岡書院の造本の本領を示すにふさわしい菊判上製、函入で、「用語篇」などの付録を含めて五〇〇ページ近くに及んでいる。「訳者小序」によれば、同書は英国民俗学協会(The Folk-Lore Society)から一八九〇年にゴンム卿が刊行した著作にバーン女史が新たに増訂し、一九一四年に同タイトルで出版したものである。その「序論」の一は「民間伝承(Folk-Lore)とは何か」と題され、次のように書き出され、この一冊の目的の在り処を物語っている。

異人その他(ゴンム卿)異人その他(バーン女史)

 Folk-Loreといふ言葉―字義的には「民間の知識」(The leaning of the people)―は「民間の旧風(popular antiquities)といふ早い頃の用語に代へて、一八四八年、故W・J・トムス氏(W.J.Thoms)の作つたものである。爾来此の言葉は、文化低き民族の間に現に行はれ、或は開花民族中の蒙昧な人民の間に保留されて居る伝統的な信仰、慣習、説話、歌謡、及び俚諺を総括し包含する汎称となつた。此の言葉は、無生、有生の自然界に関する、人間の性質及び人間の作つた事物に関する、霊界及び此れと人間との関係に関する、妖巫術、呪文、寿文、御護り、縁起、予兆、疾病及び死に関する、総て是等の未開且野蛮なる信仰を包含する。又更には、結婚、相続、幼年期及び成年期の生活そして祭礼、戦争、狩猟、漁労、牧畜其の他、或は又神話、伝説、民譚、譚話(パラツド)、歌謡、諺、謎々及び子守歌等を包含する。略言すれば、民間伝承は、民間の心的方面の装備をなす凡べての事項を包含するものであつて、民間の工芸的技倆とは区別される。(後略)

 そうしてそれらの民間伝承は三つの主要項目に排列され、さらにそれぞれの亜項目へと分類される。それらは「信仰と行為(Belief and Practice)」とにおける十亜項目、「慣習(Customs)」における五亜項目、「説話、歌謡及び言慣し(Stories ,Songs and Saying)」における四亜項目であり、それらの採集と記録方法が提示される。したがって続く第一、二、三部では三つの主要項目のそれぞれの亜項目が具体的に言及されていく。そしてこれらが「民俗学(Folk-Lore)なる名称の下に包括される」ことになるのである。

 このような実践的フィールドワークまでを扱った「民間伝承=民俗学のハンドブック」の出現は、『民族』の創刊と並んで、日本の民族学に対しても大きな刺激を与えたにちがいない。

 なお『民族』休刊後、岡正雄は渋沢敬三の援助を受け、昭和四年にヨーロッパに向かい、ウィーン大学でウィルヘルム・シュミットのもとで民族学を研究し、「古日本の文化層」により学位を取得するに至る。これが戦後になって、GHQの民間情報文化局(CIE)がウィーン大学から取り寄せ、「授与式」が行われたエピソードが『異人その他』で語られている。この「授与式」には何が秘められているのだろうか。


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