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古本夜話941 松本信広「巴里より」と『日本神話の研究』

 『民族』における「巴里(松本信広君)より『民族』同人へ」は第一巻第一号だけでなく、同第二号へと続き、第二巻第一号からは「巴里より」として、同第三号、第三巻第一号まで三回分が掲載されている。以下「巴里より」と統一する。それは大正十四年から昭和二年まで、すなわち一九二五年から二七年にかけてということになる。
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 この時期はモース研究会『マルセル・モースの世界』所収の「モース関係略年表」の「第三期(一九二五―三〇年)」に該当している。それはモースにとって『社会学年報』第二期創刊、『贈与論』の発表、レヴィ・ブリュルたちとの民族学研究所創設、そこでの民族誌学講義の開始、『供犠』(小関藤一郎訳、法政大学出版局)などの共著者ユベールの死の時期でもあった。松本の「巴里より」はそれらに加えてジェネップの『民俗学』(「現代文化叢書」、書肆ストック)を始めとするフォークロア研究、モースとユベールの高等研究実習院での未開宗教講座、グラネの同じく極東の宗教講座、コレージュ・ド・フランスのマスペロ教授の神話研究、及び二人の近刊著作、プシルスキーのインド説話研究、支那学研究所の設立などもレポートされている。
マルセル・モースの世界 供犠

 これらの同時代のフランスにおける、アジアに関する宗教学、民俗学、民族学、考古学、神話学研究の展開は柳田たちだけでなく、『民族』の読者にとっても刺激を与えたにちがいない。『民族』の寄稿者で、第三巻第二号に「明治以前の石器時代関係文献」を寄せている本連載744の中谷治宇二郎、あるいは同741などの森本六爾がフランスに向かったのは、このような松本の「巴里より」に触発されたからではないだろうか。

 その一方で、松本はソルボンヌ大学の学位論文として提出されたEssai sur la Mythologie Japonaise 及び、Le japonais et les langues austroasiatiques・étude de vocabulaire comparé を携え、昭和三年に帰国する。そして前者は古野清人「日本神話学の新研究」、後者は小林英夫「日本語の所属問題」(いずれも第四巻第一号)として紹介、書評が掲載される。

 小林の書評は日本語がプシルスキーのいうところの「オーストロアジア言語」に所属するのかをめぐって、松本の方法論的手順に疑問を呈し、日本語の体系の概念の欠如を指摘している。それに対し、松本は「小林英夫氏に答ふ」(第四巻第二号)を書き、日本語の形式にオーストロアジア語の影響が大きいと述べたけれど、両言語の親族性を証明したとは記していないし、それらは人類学や考古学などによる二民族の接触を確認し、そこから両語彙を比較検討すべきで、「日本語の所属問題」を論じていないと反論している。これは松本の論文を読んでいないし、日本語化もされていないので、立ち入ることはできないけれど、ひとつだけ指摘しておきたい。

 小林は昭和三年に、他ならぬ岡書院からソシュールの『言語学原論』を翻訳刊行したばかりであり、松本の言語学的手順に基づかず、人類学、考古学、民族学、神話学などを背景とする、日本語とオーストロアジア語の比較言語論に異議を提出したと考えられる。そして松本は反論したものの、『東亜民族文化論攷』(誠文堂新光社、昭和四十二年)所収の「松本信広著作目録」をみても、その後それを継承展開したようではないので、小林の書評は松本にとって見過ごせるものではなかったと推測される。

f:id:OdaMitsuo:20190819145833j:plain:h115(『東亜民族文化論攷』)

 その一方で、古野が書評した「日本神話学」は『日本神話の研究』のタイトルで、昭和六年に同文館から「フランス学会叢書」の一冊として出版される。この「叢書」は古野によって企画成立したようで、松本はそれを記すと同時に、「本書によりフランス大学風の一端、ことにその社会学派の神話学的一端が読者に伝えられれば予の本懐とするところ」を述べている。同書には「外者款待伝説考」など七編を収録し、いずれもその時代の「社会学派の神話的一端」を伝えているが、ここではやはり冒頭の「外者款待伝説考」を取り上げるべきだろう。
f:id:OdaMitsuo:20190819105355j:plain:h120(『日本神話の研究』)

 松本はこの一編を『常陸国風土記』の筑波山と富士山伝説から始めている。筑波山には人民が集い、飲食を豊かにもたらし、祭を行ない、遊び、楽しめることに対し、富士山はどうして雪に閉ざされ、登臨不可能なのかと。それは祖神が富士山で冷遇されたけれど、筑波山では歓待されたからで、その祭は筑波の山で春と秋に行なわれ、「この日はいかなる人々の間にも物惜しみなき饗応贈与がおこなわれた」とされる。そしてこの歓待の物語は新嘗の祭、アイヌの説話、シベリアの古アジア族の民間伝承、アメリカ・インディアンの神話の中にも見出されるし、アイヌの熊祭り、シベリアの古アジア民族の鯨祭りも同じ構造を有している。それを松本は次のように記す。
 常陸国風土記

 食料を得るとすべてのものに分与する。貰ったものは贈物をしてこれに報ゆる。またその氏族の特権として飾章と喪歌および名を採用するとき、尊長は人民全体を招待し大饗宴を開き、財産を分与する。これがアメリカ・インディアンの間にポトラッチとして知られている慣習である。この饗応・財産分配を伴わねば新しい特権獲得はできない。この種族においては、財産は分配せられんがために蓄積されるのである。蓄積そのものが目的ではない。この点において近代社会と正反対である。

 これが本連載922のモース『太平洋民族の原始経済』に基づいていることはいうまでもあるまい。松本は最後の参照文献として、この原題Marcel Mauss,Essai sur le donを挙げている。それは松本が『社会学年報』第二期創刊号に掲載されたモースの『贈与論』の出現に立ち合っていたことを告げていよう。

Marcel Mauss,Essai sur le don  贈与論(ちくま学芸文庫版) 贈与論(岩波文庫版)

 なお『日本神話の研究』は、これもまた昭和四十六年に復刊された平凡社の東洋文庫版によっていることを付記しておく。
日本神話の研究


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