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古本夜話947 山田吉彦とモロッコ

 山田吉彦もモースの弟子だから、彼のことももう少しトレースしておこう。彼は一九三九年にソルボンヌ大学を中退し、モロッコ旅行を経て、日本へと帰国する。そして二年後の昭和十八年に、マルセル・モース『太平洋民族の原始経済』の版元である日光書院から『モロッコ紀行』を刊行している。前回の松平斉光の『祭』と同年で、モースと日光書院が連鎖していることを伝えていよう。

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 山田のモロッコ行は、一九三〇年にモースが生涯唯一のフィールドワークというべきモロッコ旅行を試みていることに影響を受けてだと思われる。それに加えて、渡辺公三「マルセル・モースにおける現実と超現実」(鈴木雅雄、真島一郎編『文化解体の想像力』所収、人文書院)によれば、三〇年代は「フランス人類学における『散種』の時代」だった。モースの高弟のグリオールたちのダカール=ジプチ調査団が出発し、メトローはアルゼンチン、後に民族精神医学者となるドゥブルーはベトナム、インカ研究者のスーステルはメキシコ、独自の民族植物学の提起者オードリクールはコーカサス、レヴィ=ストロースはブラジルへと向かっていたし、それらも山田の念頭にあったにちがいない。

文化解体の想像力

 しかし写真も収録されていると思われる日光書院の『モロッコ紀行』は長きにわたって留意しているけれど、入手できていないし、未見のままである。だがおそらくこれを原本とする『モロッコ』が昭和二十六年に岩波新書として出され、四十六年には『きだみのる自選集』(読売新聞社)第三巻に収録されているので、ここでは後者をテキストとするが、著者は山田として扱う。

モロッコ(『モロッコ』)f:id:OdaMitsuo:20190902203259j:plain:h115

 山田はその「まえがき」にあたる部分で、「この旅は一九三九年の春夏に行われたものである。旅行を終わっていくばくもなく、奥地の旅行は外国人に禁止され」、「日本人としては私が最後の、(中略)一番内奥まで旅行した人間であろう」と記している。それは経緯と事情に関しては不明だが、ジョゼフ・アキャン博士がモロッコ総督府の陸軍官房長に紹介状を書いてくれたことによっている。後日譚として、アキャンは地中海でドイツ潜水艦の襲撃を受け、その一生を終えたとされ、山田は同書を「彼の私に対する深い友情の追憶」に捧げている。おそらくアキャンもまた民族学者で、山田と同様にモースの弟子だったのではないだろうか。

 山田も書いているが、『新訂増補 アフリカを知る事典』(平凡社)なども参照し、まず当時のモロッコの状況をラフスケッチしておこう。一九世紀初頭に王位にあったアジス王の時代には王権が弱体化し、内乱が起き始め、これを見てヨーロッパ各国は植民地化を目論んだ。その中でもフランスは自国の医師を殺害されたりしたことから、一万五千の兵を派遣した。その一方で、フランスは隣のアルジェリアを植民地にしていたので、モロッコに他の国以上の関心を寄せざるを得ず、各国の利害関係を清算し一九一二年に保護条約を締結した。

アフリカを知る事典 

 しかしモロッコ人は自由の民を自称し、さらにイスラム教であり、軍隊の反乱が起き、フランスは自国のレンヌ部隊長リオテーをモロッコ総督に新明氏、彼はそれを果たし、モロッコを征服し、統治するに至る。そして元帥となり、その死後はカトリック信者であるにもかかわらず、モロッコの聖者廟に祀られたのである。山田は『モロッコ』のなかで、その「聖者廟」を訪れ、「リオテーの政策」と「モロッコ進攻」にもそれぞれに一章を割き、フランスによるモロッコの植民地化とそのメカニズムを浮かび上がらせているかのようだ。「砂漠への旅の誘い」が「そこに行って征服者と敗者の姿を異国的な風景の中で見て来よう」とするものだったとの言はそのことを伝えていよう。

 それらはひとまず置くにしても、カザ(ママ)・ブランカから始めて、その港町を描いていく。アトラス伝説の大陸、フランス広場、たなびく三色のフランス国旗。フランス人の町は本国より美しい秩序がある。通りを隔てたモロッコ人の部落メディナは敵襲を考慮に入れた狭い迷路のようで、中世の夢の中で暮しているイメージがあり、ノスタルジーをそそる。夜になると羊や様々な臓物の焼肉屋に土地の青年たちが群がり、「もつ」が好物の山田も誘いこまれ、ビールを飲む。そしてさらに歩いていくと、中年のポルトガル人に声をかけられ、その案内で黒人のバーにいき、それから梯子酒になった。イスパニアやフランスの女たち、モロッコ人の女の売春婦たちがバーや路地に入り乱れている。カフェからはモロッコの楽器の音に混じり、唄が聞えてくる。入ってみると、フランス人や外人部隊の兵士たちで十ばかりのテーブルが占領され、中央の空いた場所で、半裸の女が唄を歌ったり、踊ったりしていた。「明日はチェニスかモロッコか」という「カスバの女」が聞えてくるようで、それに伴い、映画の『カサブランカ』も思い出されてくる。
カサブランカ

 カサブランカが長くなってしまったので、あとはたどるだけにする。サフイ、マガザン、モガドール、アガディール、ティズニットなどで、確かに総督府官房長宛の紹介状は効力を発揮したことがうかがわれる。

 それらとともに、『きだみのる自選集』の「あとがき」を読むと、そのモロッコ旅行の目的がモロッコのベルベル族の「ホスピタリティ」を見学することにあったと書かれていた。フランス語で Hospitalité とは「歓待」に他ならず、私訳すれば、「おもてなし」で、モースの民族学でいうところの広義の意味での「贈与」と考えていいだろう。

 つまり山田もモロッコのベルベル族にそれを見出そうとしたのであり、そのことを知ると、彼がモロッコ人部落に入りこみ、様々なフィールドワークをしたことの意味があらためて了解できるし、この『モロッコ』を流れているキイトーンは Hospitalité を求めてということに尽きるように思われた。

 だがその理由として、山田はモースの教室でつき合っていたアンリ・ボンネ夫人やウーファの女優キャビー・ベルトランの名前を挙げているのだが、それらの事情は不明であることも付記しておく。


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