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古本夜話952 花森安治、生活社『くらしの工夫』、今田謹吾

 本連載927に続けて、同948でも生活社にふれたこともあり、やはり生活社に関しても一編を挿入しておきたい。それは後者を書き終え、浜松の時代舎に出かけたところ、ずっと探していた生活社の一冊を見つけることができたからでもある。

 その一冊とは昭和十七年六月に刊行された『くらしの工夫』で、初めて実物を手にしたのだった。A5判並製、二三二ページ、装幀は佐野繁次郎で、内容は「きもの」に関する「くふう」のグラビア、デザイナーらしき女性たちによるイラスト入り「でざいん」、それに横光利一の「勝負」に始まる着物や洋服についてのエッセイが十九本続き、最後は安並半太郎の「きもの読本」で終わっている。

f:id:OdaMitsuo:20190912111449j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20190912111758j:plain:h120

 この『くらしの工夫』は同じ生活社のシリーズと見なせる『すまひといふく』の書影とともに、『花森安治』(『暮しの手帖』保存版Ⅲ)に掲載され、そこには何の説明もないのだが、双方の安並の「きもの読本」のページが見開きで、併載されている。それは『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』(「出版人に聞く」シリーズ20)で、河津一哉が証言しているように、安並が花森のペンネームであることを物語っているし、『くらしの工夫』が『暮しの手帖』を彷彿とさせることは言を俟たない。それに付け加えれば、『くらしの工夫』の「女の人、おこつてしまはないで聞いてほしいが」と始まる「序」は巻末に「C」というイニシャルが記されているが、これは「かつと」を担当している三木張吉の「C」で、これまた花森のペンネームではないだろうか。

f:id:OdaMitsuo:20190912113842j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20190912114135j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20190912210530j:plain:h120 「暮しの手帖」と花森安治の素顔(『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』)

 またこの二冊の他に、やはり生活社から出された『婦人の生活』第一冊、その第二冊にあたる『みだしなみとくほん』が『佐野繁次郎装幀集成』(みずのわ出版)に掲載されている。これらが戦後の『スタイルブック』と『暮しの手帖』の範とベースになったと考えていいだろ。これらの四冊は昭和十五年十二月から十七年六月にかけての刊行である。だが花森はそれらに関して何の証言も残していないし、彼の年譜を見ても、十四年に除隊して]伊東胡蝶園(後にパピリオ)に復職し、翌年に大政翼賛会宣伝部に入り、十九年にはその文化動員部副部長に就任している。

f:id:OdaMitsuo:20190912120512j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20190912120145j:plain:h120(『佐野繁次郎装幀集成』)

 その軌跡から考えると、生活社の四冊は伊東胡蝶園に復職し、大政翼賛会宣伝部に入った時期に出されているとわかる。伊東胡蝶園は佐野を通じて就職しているし、大政翼賛会との関係は杉森久英「花森安治における青春と戦争〈抄〉」(『花森安治』所収)に描かれているけれど、まったく不明なのが生活社とこれら四冊との関わり合いである。それゆえに入手した『くらしの工夫』を参照し、検証してみる。

 幸いにして、付録といっていいA5判四ページの「婦人の生活の研究のかいらん板」第二号、アンケート葉書もそのまま挿まれているからだ。前者はまず「お禮」の一文が置かれ、「女学校の本や、隣り組、講習会の本に使つて下さいました方々に、つつしんでお禮申上げます」と始まっている。それは生活社のこのシリーズが戦時下の女学校、隣り組、講習会の採用本として編集刊行されたことを伝えている。奥付定価は一円三十銭、「発行(五〇、〇〇〇部)」はその事実を示していよう。

 杉森は花森の文化動員部副部長就任が「翼賛会としては異例の抜擢」で、地方県庁の部長級が当てられていたことから、「内部の平部員から昇格する例はあまりなかったが、花森はその珍しい例」だったと証言している。それは『くらしの工夫』の定価と発行部数から考えても、これらの四冊の企画の成功がその「異例の抜擢」の要因だったのではないだろうか。また生活社版以外に直販の大政翼賛会版も刊行されていたのかもしれない。

 しかしここで問わなければならないのは誰が花森と生活社を結びつけたのかということである。もちろんその他にも多くの生活社の書籍の装幀者だった佐野の存在も挙げられるが、アンケート葉書のことから考えてみたい。その宛先は神田区須田町の生活社内「婦人の生活の研究部」宛になっている。そして先の「かいらん板」と『くらしの工夫』の編輯人は今田謹吾とある。とすれば、この「婦人の生活の研究部」は今田を編輯長とし、これらの四冊を生活社から発行したことになろう。

 この今田は『日本近代文学大事典』に立項が見えるので、それを引いてみる。
日本近代文学大事典

今田謹吾 いまだきんご 明治三〇・二・二〇~昭和四七・一一・一六(1897~1972)児童文学者、劇作家、画家。広島市の津田家に生れ、母方の家をつぐ。中学時代に石山徹郎に教わり、上京(出版社勤務)後もともに新しき村創設の例会、演説会に参加。草創期(大七)の入村者の一人であるが翌年離村。童話、戯曲(中略)を書いたり、ファッション、婦人雑誌の編集など多方面の才能を発揮するが、終始、武者小路実篤の周辺から離れていない。晩年は絵画に精進し、「大調和展」にしばしば出品する。著書に『陶器の鑑賞』(昭和五・六 厚生閣書店)がある。

 この立項はあまり具体的ではないけれど、「ファッション、婦人雑誌の編集など多方面の才能を発揮」とあるので、「婦人の生活の研究部」へとリンクしていると推測される。それに生活社の創業者で、『くらしの工夫』の奥付発行人鐵村大二を置いてみると、彼も広島出身であり、おそらく本連載30の柳沼澤介の東京社の『婦人画報』や『スタイルブック』の編集者で、それらを通じて今田とコラボレーションするようになったのではないだろうか。そして独立して生活社を興し、今田を「婦人の生活の研究部」へと召喚し、そこに大政翼賛会にいた花森も参加する。したがって鐵村や今田を通じて、花森は婦人雑誌の編集ノウハウを学んでいったと思われる。だがなぜそれを花森が秘匿しておいたのかは謎のままなので、これからもそのことを探索してみたい。


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