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古本夜話957 「爐辺叢書」と本山桂川『与那国島図誌』

 前回の『生蕃伝説集』と併走するように、同時代に南島文献が出され始めていた。柳田国男研究会編『柳田国男伝』(三一書房)は、「甲寅叢書」の継続事業ともいうべき郷土研究社の「炉(ママ)辺叢書」が、南島研究史に大きな意味を持ち、全三十六冊のうち八冊が南島に関する著作で、「今日でも研究上重要視されている文献ばかり」だと述べている。それらの刊行年月は省略する代わりに、番号を付し、著者と書名をリストアップしてみる。

f:id:OdaMitsuo:20190924112555j:plain(『生蕃伝説集』、大空社復刊)

1 伊波普猷 『古琉球の政治』
2 佐喜真興英 『南島説話』
3 喜舎場永珣 『八重山島民謡誌』
4 宮良当壮 『沖縄の人形芝居』
5 東恩納寛惇 『琉球人名考』
6 佐喜真興英 『シマの話』
7 本山桂川 『与那国島図誌』
8 島袋源七 『山原の土俗』

f:id:OdaMitsuo:20190924210229j:plain:h120(『琉球人名考』)

 その他にもネフスキー『宮古島の言語』、宮良当壮『八重山語彙』、伊波普猷『宮古島民謡集』、『和訳遺老伝』が企画されていたが、これらは未刊に終わった。このうちの7だけは手元にある。といっても、これも拙稿「山中共古と爐辺叢書『甲斐の落葉』」(『古本探究Ⅲ』所収)でふれておいたように、早川孝太郎『羽後飛島図誌』との三冊合本としてで、それには「わだぶんこ」という蔵書印が打たれている。おそらくそこで菊判半截の並製の三冊が合本、上製化されたと思われる。

古本探究3

 それもあって、『与那国島図誌』は三冊の中でも紙が白いことが目立つ。その理由は写真の掲載が多いことにより、アート紙を使用しているからである。ちなみに数えてみると、一〇八ページに四〇枚が収まり、それらは現在でも貴重な、当時の与那国島の風景、生活、島民などに関する写真ではないだろうか。また多くの写真に加え、象形文字、数字の書法も図版化されているので、コスト面はともかく、発行者として奥付にある編集者を兼ねる岡村千秋の配慮によって、『与那国島図誌』はアート紙使用となったのであろう。ただ私にしても、「爐辺叢書」のすべてを見ているわけではないので、推測によるのだが。

f:id:OdaMitsuo:20190924203620j:plain(『与那国島図誌』、名著出版復刻)

 しかしそれらの採集にしても、多大の苦労を伴っていたことが、その大正十四年十月の日付の「はしがき」からもうかがえる。まずは島へのアクセスから始まっている。

 島に渡るには小さな発動機船で運ぶ石油や味噌樽の傍に身を縮めて、辛ひ一夜を過ごさねばならぬ。梅雨期のやうな海南の冬の雨を衝いて三十八浬を走り、西表島の浦内で夜半の長時間を潮待した後、又四十二浬を十時間走りつづけ、やつと翌朝与那国島の祖納(そない)港に着いた。

 だが「あこがれの島」には旅館もなく、民家の一室を借りたが、夜具も蚊帳も村役場の宿直室のもので、食事にしても、黒い島米と豚肉だけであり、半月間、風呂には一日も入れなかった。また連日の風雨に阻まれ、交通も途絶し、島を出ることもできなかった。その二ヵ月後「自称漂流者」は大阪商船の八重山丸が南岸に寄港することを知り、その出船間際に乗りこみ、台湾を経て、八重山、宮古をたどり、ようやく旧正月を迎えた那覇に舞い戻ったのである。

 それでも「島の思ひ出は数々多い」し、「柳田国男先生の慫慂に甘えて此の一冊を編」み、「僅かに集め得た資料を似て、乏しき一つの備忘録を作る」とある。だが『与那国島図誌』は「乏しき」どころか、四十三項目に及び、それは与那国島の古い言葉とされる「イレネー」から始められている。これは「入船」の意味らしく、他島との交通不便な島民にとって、船舶を待つことは切実なるもので、入港の船影を認めると、村の人々が我先に戸外に飛び出し、声高く「イレネー イレネー」と呼びつれ、磯辺に蹲り、そのイレネーの人々の上陸を待ちわびたという。本山は笹森儀助が『南嶋探験』でこの「イレネー」のことを書いていると指摘し、今日ではもはや島民は口にしないけれど、船が入ると用もない人も駆けつけてはしゃいでいると述べ、その写真を掲載している。

南嶋探験(『南嶋探験』)

 この「イレネー」を例に挙げるだけでわかるように、『与那国島図誌』は南島の生活や習俗をレポートしていて興味深い。確かに同書も含まれる「爐辺叢書」が南島に関して、「今日でも研究上重要視されている文献ばかり」だと実感させられる。ところで著者の本山だが、そのプロフィルは『柳田国男伝』などではなく、『日本近代文学大事典』に見出される。

 本山桂川 もとやまけいせん 明治二一・九・二一~昭和四九・一〇・一〇(1888~1974) 長崎市出島町生れ。本名豊治。早大政治経済科卒。民俗および民芸の調査研究に従事。著述に『日本民俗図誌』全二〇巻(東京堂)『日本民俗図説』(八弘書店)その他。戦後、金石文化研究所を主宰し、全国の新旧文学碑を訪ねて拓本数千枚を家蔵、これに関する著書に、『史蹟と名碑』(昭和二七・三 金石文化研究所)『芭蕉名碑』(昭和三六・一 弥生書房)『写真・文学碑めぐり』シリーズ四巻(昭和三九・七・一〇、一二、四〇・三 芳賀書店)などがある。

 この立項が示すように、私などが本山について知っていたのは文学碑や史蹟研究者としてであった。それこそ彼の『旅と郷土の文学碑』(新樹社、昭和四十一年)や『写真文学碑』(現代教養文庫、同三十五年)を所持し、文学碑を調べる際の辞典代わりにしていたのである。その本山が柳田門下で、「爐辺叢書」の著者だったことを、『与那国島図誌』を読み、あらためて知らされたことになる。

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