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古本夜話959 金田一京助『北の人』と知里幸恵『アイヌ神謡集』

 伊波普猷の『古琉球』の「改版に際して」の中に、青磁社の山平太郎が見え、「北人の『ユーカラ概説』に対して、南人の『おもろ概説』が欲しい」といわれ、それは少なくとも一ヶ年を要するので、代わりに『古琉球』の「改版」を提案したとの言があった。
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 その『古琉球』の奥付裏広告に金田一京助の『ユーカラ概説』と『北の人』が掲載されていたことから、「北人」が金田一だとわかったし、前者は未見だが、後者は所持していたのである。ただ『北の人』は昭和九年に梓書房から刊行されているので、昭和十七年の青磁社版はその復刻といえよう。「再版の序」は角川源義の尽力が記され、奥付の刊行者は山平太郎となっている。
f:id:OdaMitsuo:20191001100731j:plain:h120 青磁社 f:id:OdaMitsuo:20191001113129j:plain:h120(角川文庫版)

 この梓書房は拙稿「柳田国男『秋風帖』と梓書房」(『古本屋散策』所収)でもふれておいたように、山岳書を主としているが、岡書院の別会社であるので、ここでもあらためて紹介しておいたほうがいいだろう。岡茂雄は「岡書院・梓書房出版目録」を収録した『[新編]炉辺山話』 (平凡社ライブラリー)において、次のように述べている。

古本屋散策 炉辺山話

 私は大震災後、ある動機で、今でいう文化人類学関係の専門書肆岡書院を創めて、出版界に足を踏み入れましたが、この仕事をまご子に継がせる気持は毛頭なく、特別の縁故で私の許に来ていた、若いSという番頭に継がせることにし、出版という仕事を体験によって会得させようと思いました。そして梓書房という屋号を別に設けてこれに当らせ、私が後見することにしました。梓は私の忘れ難い梓川に因んだのには違いありませんが、梓の板木、また梓弓などを(ママ)考えを回らせた末、名付けた屋号であります。
 ところがSは、どのような経緯があったのか、ロシヤ文学専攻の若い詩人中山省三郎氏と親しくなっており、その関係から詩集ばかり手懸けて、すくなからず損害をして困りました。北原白秋、伊良子清白、横瀬夜雨、吉江孤雁等でしたので、大目に見てはいましたが、そうそう赤字を重ねられては困る、どうせ赤字を出すならば、私の好きな本もといって、取りかからせたのが、山岳図書であったのであります。

 ちなみにSは坂口保治で、各詩集は北原白秋『月と胡桃』、伊良子清白『孔雀船』、横瀬夜雨『雪灯籠』、『吉江喬松詩集』などである。だが昭和五年に岡書院から、やはり金田一の『ユーカラの研究』が出されていることからすれば、『北の人』の「序」に、タイトルは柳田国男の命名によるとも述べられているし、岡の企画によっているはずだ。

 金田一に関しては、同郷の石川啄木との交友でも知られているが、アイヌ語やアイヌ研究者であり、明治四十年に樺太のアイヌ語調査に赴き、帰京後、本連載518の金沢庄三郎の『辞林』の編集を手伝い、そこで国学院生の折口信夫と知り合っていた。そして二人は『郷土研究』への投稿を通じて柳田国男に見出され、四十五年に金田一は郷土研究社の「甲寅叢書」第一冊として、『北蝦夷古謡遺篇』を上梓している。この「甲寅叢書」については拙稿「出版者としての柳田国男」(『古本探究Ⅲ』所収)でふれているので、参照して頂ければ幸いである。

北蝦夷古謡遺篇 (『北蝦夷古謡遺篇』) 古本探究3

 これらの金田一の樺太アイヌ調査や『北蝦夷古謡遺篇』のことは『北の人』の「片言を言ふまで」などに語られているけれど、どうしてもここで言及したいのは同書に写真も掲載されている「知里幸恵さんのこと」や、「故知里幸恵さんの追悼」といった彼女への追悼文である。金田一が語る幌別の巨酋カンナリの遺子としての二人の姉妹、彼女たちは聖公会の英人牧師が建てた学校を出て、女伝道師として働く身になった。姉のイメカメ(日本名マツ)はそのまま伝道の仕事を続けたが、妹のノカアンテ(日本名ナミ)は登別のアイヌ青年知里高吉と結婚して、不毛の山地での開拓農業に従事し、二男一女をあげた。妹は姉のもとに長女を送り、カンナリ家の後継ぎとした。そうして成長した少女は旭川郊外のアイヌ部落を訪ねてきた金田一と出会うことになる。

 彼女は老母=おばあさん、母=伯母との三人暮らしで、十六歳の養女、旭川女子高二年の知里幸恵であり、学校を出た翌年に、老母=「アイヌの最後の最大の叙事詩人(ユーカラクル)、モナシノウク」に習い覚えた数々の歌謡や物語をみやげに上京する。それから金田一の命名で、これも郷土研究社の「爐辺叢書」の一冊として、大正十二年に『アイヌ神謡集』を刊行に至る。だがその上梓を見ることなく、大正十一年九月に行年二十歳で宿痾の心臓の病のために東京で亡くなり、雑司ヶ谷の奥の椎の木立の下に墓石が建てられた。『アイヌ神謡集』が絶筆となったのである。先の「知里幸恵のこと」は『アイヌ神謡集』に添えられた一文であった。

f:id:OdaMitsuo:20191001112507j:plain:h120 (『アイヌ神謡集』、郷土研究社版)

 アイヌの「部落に伝わる口碑の神謡を、発音どおり、厳密にローマ字で書きつづり、それに自分で日本語の口語訳を施した」原稿は、渋澤敬三がそのまま活版屋に渡すことを惜しみ、タイプライターで打ち、それを金田一に与えたというエピソードも明かしている。

 本当に幸いにしてというべきか、知里幸恵編訳『アイヌ神謡集』は昭和五十年に岩波文庫化されているので、その知里が「序」を記した一冊を容易に読むことができる。彼女はそこに記している。「愛する私たちの先祖が起伏する日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものとともに、消失せてしまうのでしょうか」と。だがこの『アイヌ神謡集』が残されたことで、その一端は読み継がれていったことになろう。

 アイヌ神謡集

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