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古本夜話963 眞堺名安興と『沖縄一千年史』

 もう二冊ほど沖縄書があるので、続けて書いてみる。

 一冊は眞堺名安興、島倉龍治著『沖縄一千年史』で、昭和二十七年の四版とあり、発行者は福岡市の親泊政博、発行所は住所を同じくする沖縄新民報社、発売所は琉球文教図書株式会社となっている。
f:id:OdaMitsuo:20191028091755j:plain:h110(『沖縄一千年史』、琉球史料研究会復刻版)

 二人の著者のうちの眞堺名は『柳田国男伝』の「註」の「伊波普猷略年譜」のところに、沖縄県尋常中学校の同級で、沖縄県立図書館長とあり、主著として『沖縄一千年史』が挙げられていた。同書はA5判上製、本部六五一ページに及ぶ大冊で、六枚の口絵写真には沖縄県立図書館郷土研究室における著者の姿も含まれている。

 その構成を示せば、沖縄人の始祖から始まる古代記、四王統の興亡、尚圓王統前期、同中期、同後期の五篇からなり、それぞれの歴史、文化、神社と宗教、風俗などがたどられ、本土との関係もトレースされ、最初の沖縄の一千年通史に位置づけられるであろう。その中から何を紹介しようかといささか迷うのだが、やはり第三編第四章における「上代の遺風」の中の「拝所」を引きたい。それは次のように記されている。

 琉球神道記に「国の風として岳岳浦浦の大石大樹皆御神に崇め奉る。然して拝貴則験(をがみあがめばしるし)あり」とあるが如く、琉球にては之を拝所(ヲガミジヨ)と称へ、概ね石垣を繞らし、香爐を備へ、内部には大樹怪石ありて殊に蒲葵、恍榔、榕樹、「ガジマル」等鬱蒼たり。此の拝所は琉球全島に亘り、到る所に存在して夫々神名を有し、(年中祭祀等参照)例へば、「クバツカサ」(蒲葵司)或は「マニツカサ」(恍榔司)など称せり。本土に於ても亦鳥獣、金石、草木等珍奇のものを神と崇め、或は尊(ミコト)と唱へて、崇礼せしは一般の旧習にて、記紀等に徴せるも亦上古の風なりしこと明なり。

 しかし鳥獣に関しては沖縄には鳩、鹿、猿、狐がいないので、「蛇、鰻、鯉等を神仏視することあり」とも付け加えられている。

 この「拝所」という言葉を最初に知ったのは岡谷公二の『南の精神誌』(新潮社、平成十一年)によってである。この中で、彼は沖縄全域に見られる、本土の神社に相当する聖地としての「御嶽」を論じていた。それによれば、一般には「ウタキ」だが、「オタキ」「オタケ」とも呼ばれ、土地によっては「ハイショ(拝所)」「ウガンジョ(拝み所)」「ウガン」、もしくは「ムトゥ」「オン」「ワン」「ワー」などとも称されているようだ。さらに先の「クバツカサ」「アニツカサ」も加えられる。それは「御嶽」が外部の者に対する「一種の公的用語」であることを伝えていよう。

南の精神誌(『南の精神誌』)

 沖縄の「御嶽」は今でも「建物の類が一切なく、クバ、アコウ、ガジュマルなどの茂った森だけを、神を祀る場所としているところが多い」。沖縄に古神道の原型が残されているとすれば、神社もかつては「御嶽」と同じだったのではないかと岡谷は問うている。また「そうした森の中に立っていると、人々の心が神に向って純一になり、透明になってゆくのが実感」されるとも書いている。

 その岡谷の『南の精神誌』を読んでから、それほど間を置かず、岡本敏子編『岡本太郎の沖縄』(NHK出版、平成十二年)が出された。そしてその中に七枚の「御嶽」の写真が見出された。それは「天地開秒闢の時、はじめて神々が降臨したという久高島」のクボノ御嶽(通称・大御嶽)、本島知念村の斎場御嶽、石垣島の拝所で、確かに「この神聖な地には、神体も偶像も何もない」のだ。斎場御嶽に関しては岡谷も『南の精神誌』の中で、「伊勢神宮に比すべき聖地」として、長く詳細に論じ、描いている。これらの写真は昭和三十四年十一月から十二月にかけて撮られ、その記録は『沖縄文化論』(中公文庫)としてまとめられている。おそらく岡本は本連載で言及を続けてきたマルセル・モースの Manuel d'ethnographie (Payot ,1947)を携え、沖縄へと向かったのであろう。

岡本太郎の沖縄 沖縄文化論 Manuel d'ethnographie

 さらに続けて「御嶽」に言及したいのだが、それは次回に譲り、『沖縄一千年史』には巻末に先の発行者の親泊政博による「『沖縄一千年史』四版刊行に際して」が収録されているので、それにふれてみたい。同書の初版は大正十二年に、やはり島倉龍治共著として、五百部限定版で出された。その事情は初版刊行の助力を約し、激励していた、沖縄財界の伸吉朝助が失脚し、印刷費が捻出できなくなり、出版が頓挫しようとしていたことにある。

 ちょうどその頃、島倉が那覇地方裁判所検事正として着任し、沖縄史研究に関心を寄せ、様々な活動を展開し、眞堺名と肝胆相照らし、『沖縄一千年史』の出版援助の議がまとまった。そして島倉の積極的強力による上梓の機運の到来とその深甚なる友好にほだされ、眞堺名は島倉に「序」を乞い、「合著の形式をもつて礼をつくした」とされる。ここでようやく「合著の形式」が了承され、そのような出版のかたちもあることを教えられる。

 それから眞堺名はさらに資料収集と再検討を加え、昭和七年に増補新版刊行を意図し、沖縄県立図書館で親泊に助力を求めた。親泊が直ちに応諾したことに眞堺名は満悦の意を表されたという。しかし眞堺名は不幸にして病に付し、増補新版刊行の実現を見ずして、病床に呻吟し、昭和八年十二月、五十九歳でその一生を閉じることになった。再版刊行は昭和九年三月であり、それで同書の口絵写真に同年四月の沖縄郷土協会主催の「故眞堺名安興氏追悼会」の一枚が掲載されている事情を理解することになるのである。


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