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古本夜話967 「アチック・ミューゼアム彙報」と田中梅吉『粒々辛苦・流汗一滴』

 『民間伝承』の第一号には「最初の世話人」として、柳田国男、橋浦泰雄、守随一などを含めた十四人の名前が挙がっているが、意外なのは宮本常一を始めとして、澤田四郎作、桜田勝徳が名前を連ねていることである。

 佐野眞一の宮本と澁澤敬三を描く『旅する巨人』(文春文庫)によれば、昭和八年に宮本はガリ版刷り同人誌を創刊している。これがきっかけとなり、大阪の医者で民俗学に傾倒する澤田四郎作と知り合う。澤田は柳田とも知り合いで、下阪する際にはかならず、彼のところに立ち寄り、民俗学者の間ではその診察所は「沢田ハウス」と呼ばれていたという。この澤田との出会いにより、初めて柳田とつながる民俗学徒を知り、大阪民俗説話会、後の近畿民俗説話会が発足する。
旅する巨人

翌年には柳田から宮本に手紙が届き、京都大学に集中講義にいくので、君に会いたいと書かれていた。話は主として山村調査で、在版の若き民俗学徒の桜田勝徳、倉本市郎と会うように勧めた。さらに十年四月には大阪民俗説話会を澁澤が訪ねてくる。この時代に澁澤はアチック・ミューゼアムへ桜田、倉本、宮本を入所させるつもりでいた。

 その後、続けて桜田と倉本が上京してアチック・ミューゼアムに入所したが、宮本は収入なども不確かなアチック入りをすぐに決断できなかった。それでも同年七月、東京の千駄ヶ谷の日本青年館で、柳田の「還暦記念」を兼ねる日本民俗学講習会が一週間にわたって開かれ、それに出席し、初めて澁澤邸とアチック・ミューゼアムを訪れ、実際にその四年後にアチック入りするに至る。

 しかしこれはないものねだりだと承知しているが、佐野の筆は宮本と『民間伝承』の関係には及んでいない。しかし『民間伝承』第一号には『口承文学』(第十号)の紹介、「新入会員紹介」にはアチック・ミューゼアムの名前、「学界消息」として「アチックより」もレポートされていることからすれば、宮本たちのことも含め、両者は初期人脈もクロスし、予測以上に併走関係にあったと見なせよう。また『柳田国男伝』の注によれば、民間伝承の会設立が決められた日本民俗学講習会は、京都で会った宮本の民俗学の蒙をひらくための講習会を持ってほしいという申し出に端を発しているという。

柳田と宮本の関係はともかく、佐野の『旅する巨人』にふれたので、ここでアチック・ミューゼアム、後の日本常民文化研究所が刊行していた研究書「アチック・ミューゼアム彙報」を取り上げてみたい。あらためてアチック・ミューゼアムをラフスケッチしておくと、渋澤敬三は大正十年にアチック・ミューゼアムソサエティを設け、その邸内物置の天井なき二階屋根裏=アチックを標本室とし、十四年から民具収集を始め、昭和九年からは単行本も刊行するようになる。それらの中に宮本の『周防大島を中心としたる海の生活誌』、澁澤編書『豆州内浦漁民史料』などもあり、それらは戦前だけで全五十二冊に及んでいる。しかしすべてが郷土史やその社会史料といった専門書で、商業出版物とはいえず、澁澤のパトロネージュによらなければ、企画刊行できなかったと断言していい書物群を形成している。

それらの一冊を、例によって浜松の時代舎で見つけ、購入してきている。それは田中梅治の『粒々辛苦・流汗一滴』と題された「島根縣邑智郡田所村農作覚書」で、この出版に至るエピソードが『旅する巨人』で言及されている。宮本は自分の旅を歩いただけでなく、「すぐれた郷土史家を発掘し、その業績を世間に広く知らせる仕事も自分に課してい」て、その仕事のひとつが田中の著作の出版だったと佐野は述べている。

宮本が最初に田中の名を知ったのは近畿民俗説説話会で一緒になった赤松啓介(栗山一夫)と通じてである。それは赤松が『民間伝承』に農業技術に関して、「実際に農業を知らない奴ばかりが書いているという内容の批判」を寄せたことがきっかけだったとされる。『民間伝承』を確認してみると、その一文は昭和十二年一月号の「会員通信」に本名の栗山一夫で寄せられた「播磨の亥の子」だと思われ、そこではその風習をめぐって、「実際の農業的生産技術及びそれに及ぼす一切の影響」を含めて考えるべきだと指摘している。

するとただちに「田中の細密な農業記録」が送られてきたが、当時の赤松は労働運動で官警から追われる立場にあった。それを佐野は実際に赤松をインタビューし、次のように書いている。

 それを一読して赤松は、本当の百姓が書いたものだと驚嘆し、ぜひとも出版させたいと思った。だが検挙が間近に迫った身としては、それはとても叶えられる話ではなかった。そのとき下宿にひょっこり現れたのが宮本だった。宮本がアチック入りする数ヵ月前の昭和十四年の春のことだった。
「検挙されればせっかく預かった貴重な資料も全部押収されてしまう。それで宮本に、これを預ってガリ版でもいいから出版してくれないか、と頼んだんだ。検挙される数ヵ月前のことだった」

それを受けて、宮本は十一月に田中の住む島根縣邑智郡田所村に向かった。アチック入りしてから初めての旅だった。そして田中に会い、彼が明治末期に信用組合を先駆けて結成し、村内に貧富の差を生じさせないように腐心した篤農家であることを実感した。さらに翌年にも宮本は澁澤を伴い、田中を訪ね、その「自分自身の生活に関してはつましく、おそろしいほど古風」な人柄を再見している。だが一ヵ月も経たないうちに、田中はその七十三歳の生*を終え、二人の来訪がなければ、『粒々辛苦・流汗一滴』の刊行も実現していなかったかもしれない。

昭和十六年九月に「「アチック・ミューゼアム彙報 第四八」として、田中の『粒々辛苦・流汗一滴』は刊行された。A5判変型、田中の写真と年譜、索引も含め、二〇〇ページに及び、森脇太一の「序文」はこれまでたどってきた出版の経緯と事情をも詳細に伝えている。

その奥付を見ると、発行者は高木一夫、発売所は丸善とあるので、「アチック・ミューゼアム彙報」が丸善を通して流通販売されていたとわかる。高木は佐野の『旅する巨人』には出てこないが、『柳田国男伝』には最後までアチック・ミューゼアムにとどまった所員として姿を見せている。彼が澁澤の出版代行者だったのであろう。

なお「アチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)の刊行物一覧」は平凡社の『澁澤敬三著作集』第5巻に収録されている。
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