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古本夜話972 ジェネップ『民俗学入門』

 本連載936のバーンの岡正雄訳『民俗学概論』に続いてとは言えないけれど、その五年後の昭和七年にヴァン・ジェネップの後藤興善訳『民俗学入門』が、郷土研究社から刊行されている。
 その第一章は「フォークロアの歴史」と題され、次のように始まっている。
f:id:OdaMitsuo:20191122175107j:plain:h120 (『民俗学入門』)

 フォークロアFolk‐Lore[日本では民俗学とか民間伝承学とか俚伝学と普通訳されてゐる]といふ語は英語からの借用語で、フォークfolk は民衆を意味し、ロアlore は知識、研究の義である。この学問の目的とする所は、即ち民衆を研究することである。この語はトムスW.J.Thomas によって一八四六年全く別々の語から作られた。彼はこの語を、民間古俗Popular antiquities (それは英国の農民の間の信仰と習俗を記述したブランドBrandt の名著の標題である。)という厄介な表現の代わりに使つたのである。

 後藤は「訳者小言」において、「この小冊子はフランスのフォークロリスとして令名のあるArnold Van Genep のLe Folk‐Lore といふ手引書のやゝ詳しい梗略であつて、精密な意味の翻訳からは幾分遠いものである」と述べている。しかしその言をふまえても、この書き出しは明らかにバーンの『民俗学概論』を範としているし、これはフランス版『民俗学概論』と見なせよう。

 それを示すように、この一三三ページの「小冊子」は第二章から四章までが「フォークロアの領域」「研究方法」「構図」、第五章から十章がそれぞれ「説話と伝説」「民謡と踊り」「遊戯と玩具」「儀式と信仰」「民家・家具・衣服」「民間工芸」という構成である。これもバーンの民間伝承の主要項目と亜項目とに照応していることになろう。

 ヴァン・ジェネップは『通過儀礼』(秋山さと子、彌永信美訳、思索社、昭和五十二年)の著者だと認識していた。そこで彼は諸文化に見られる様々な儀礼がその総合的機能からすると、年齢、身分、場所などの変化を伴い、分離、移行、合体というプロセスをたどるというイニシエーションを唱えたことでよく知られていたことも。だがこのような入門書を上梓していることは知らずにいた。それもあって、同書所収の「ヴァン・ジェネップ著作目録」を確認してみると、Le Folklore.Croyances et coutumes populaires françaises(Stock,1924)が見つかり、128pとあるので、おそらくこれが原本だと思われる。

通過儀礼

 ジェネップは『文化人類学事典』にファン・ヘネップとし立項されているので、それを要約してみる。彼はオランダ系の民俗学・民族誌学者で、西ドイツ生まれだが、幼児よりフランスで教育を受けた。東洋語学校でアラビア語、高等研究実習院では言語学、エジプト学、宗教学などを学び、外務省情報部などを経て、スイスのヌシャテル大学の民族誌学講座の教授となった。だが三年で辞職し、その後は寄稿、翻訳、講演で過ごし、デュルケムを中心とするフランス社会学を批判し続けたが、ジェネップの名を高らしめたのは一九〇九年に発表した『通過儀礼』によってだとされる。

文化人類学事典 

 これらの事実からすれば、『民俗学入門』は『通過儀礼』から十五年後に刊行された『民俗学手引き』といったもので、それこそ生活のために書かれたのであろうし、そのことを知ると、先の「著作目録」に見られる多岐にわたる大量の執筆や出版が理解できるように思われる。ただよくわからないのがデュルケムとの確執で、『通過儀礼』の「訳者あとがき」にもふれられている。それによれば、マルセル・モースも『社会学年報』で、『通過儀礼』に対して厳しい批判を唱えたゆえか、ジェネップはフランス民俗学の創始者の一人、社会、宗教学の理論家だったにもかかわらず、長きにわたって再版されることなく、「まぼろしの名著」として知られていたという。

 時代的にいえば、ジェネップは一九〇四年に高等研究実習院の卒論『タブーとマダガスカル島のトーテミズム』を上梓し、『通過儀礼』の出版当時、モースは高等研究実習院で「非文明民族の宗教史」講座を担当していたことから、交流はあったはずだと考えらえる。

 すでに本連載935で、『民族』をめぐっての岡正雄と柳田の確執にふれてきたし、あえて言及しなかったけれど、それは『柳田国男伝』も指摘しているように、岡と柳田の長女三穂との縁組が実らなかったことにも起因していたのである。それは他ならぬ『民俗学入門』を出版した郷土研究社の岡村千秋も、そうした柳田の雑誌と書籍出版の編集代行者だったし、彼を抜きにして柳田の出版道楽は成立しなかった。

 岡正雄は「岡村千秋さん」(『異人その他』所収、言叢社)で、岡村を通じて柳田に接し、民俗学に入った人も少なくなかったと記している。岡茂雄も『閑居漫筆』(論創社)で、郷土出版社の経営に苦しんでいるにもかかわらず、柳田は「その辺の消息には一向にお構いもなく、何かにつけて辛辣な小言を岡村氏に浴びせられるようで」「私は同情に堪えなかった」と書いている。なおこれらのことに関しては拙稿「出版者としての柳田国男」(『古本探究Ⅲ』所収)などを参照されたい。

異人その他  f:id:OdaMitsuo:20190804114900j:plain:h110 古本探究3

 この事実に言及したのは、デュルケムやモースの寡作な姿勢に対し、もちろん思想的なものも含め、ジェネップの広範囲に及ぶ多作ぶりは認められないもので、それも彼らの確執の一因になったのではないかとも考えられたからである。つまり執筆や出版をめぐっての確執であり、それは『民族』そのものが民俗学と民族学をめぐって体現していたからに他ならなかったのである。

 
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