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古本夜話975 日本民俗学会『海村生活の研究』と戦後の柳田国男

 前回の後藤興善の『又鬼と山窩』に収録されている「豊後水道への旅」と「萬弘寺の市」は、昭和十二年に柳田国男の木曜会メンバーを中心とする全国海村調査に対し、日本学術振興会の補助金が出されたことで実現した記録である。また「恠音・恠人」「神仏の恩寵冥護」「前兆予示と卜占」は、同じく昭和九年からの全国山村調査の記録で、これらは昭和十二年刊行の『山村生活の研究』にも収録されている。

f:id:OdaMitsuo:20191203141400j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20191121152424j:plain:h120 (『山村生活の研究』)

 この二つの調査は日本民俗学が始めて全国規模で行なった同時調査で、画期的試みとされる。しかし『山村生活の研究』の上梓はほぼリアルタイムで実現したけれど、『海村生活の研究』は昭和十四年に終了したこともあってか、戦後まで持ちこされてしまい、民間伝承の会の後身の日本民俗学会から刊行されたのは昭和二十四年になってからのことだった。A5判上製、索引も含めて四七二ページに及び、一〇〇の「海村生活調査項目」も挙げられ、二五の調査報告は木曜会メンバーの最上孝敬、橋浦泰雄、桜田勝徳、瀬川清子、大間知篤三、大藤時彦などの十一人によるものだ。

f:id:OdaMitsuo:20191121150554j:plain:h115 (『海村生活の研究』)

 だが残念なことに、後藤は戦後になって何らかの事情で柳田から離れていたのか、先の二編に加え、念願の「宇和の大島」の民俗誌の収録は実現しなかったことになる。『柳田国男伝』においても、後藤の戦後の消息はたどられていないし、没年の記載もない。これまでも本連載756で富永菫や北野博美や地平社書房にふれてきたが、彼らも柳田の出版代行者や口述筆記者であったけれど、いつの間にか柳田の周辺から姿を消している。柳田民俗学はそうした人々によって支えられていたことも事実だし、後藤にしても同様だったのではないだろうか。

 それらはともかく、柳田国男は編者として「海村調査の前途」という「序文」を寄せ、次のように書き出している。

 待ちに待つた海村報告の一部が、やつと出るやうになつた喜びを記念するため、今思つて居ることを其まゝに、如何に我々の為し遂げたことが小さく、之に反して将来の希望が今に於てのなお如何に楽しいかといふことを、一つ書きのやうにして書き残して置かうと思ふ。

 遅延したけれども、戦後を迎えての『海村生活の研究』の出版に心を躍らせている柳田の姿が、この文章から浮かび上がってくるようだ。昭和二十年十月に臼井吉見は雑誌『展望』の創刊の相談をするために、柳田を訪問し、それを『蛙のうた』(筑摩書房)に書きつけている。「敗戦直後、僕が会った多くの人たちのなかで、七十歳を越えた柳田にくらべられるほど、いきいきした感覚と気力にはずんだ人をついぞ見かけなかった」と。そのような高揚がまだ続いていたのだろう。

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 『[別冊]柳田国男伝』の「年譜」を確認してみると、二十年九月には、十九年に一時中止していた木曜会を再開し、翌年には三百回ほど続いた木曜会を発展解消し、書斎を民俗学研究所として開放し、『民間伝承』も復刊する。その一方で、枢密顧問官、帝国芸術員会委員となり、二十三年には民俗学研究所は財団法人化され、二十四年には民間伝承の会を日本民俗学会として改称し、その会長となり、その直後に『海村生活の研究』が出されたわけだから、柳田の高揚が了解できるのである。

 それだけでなく、柳田は『先祖の話』(筑摩書房、昭和二十一年)、「新国学談」三部作としての『祭日考』『山宮考』『氏神と氏子』(いずれも小山書店、二十一、二十三年)も次々と上梓している。それらと併走するように、『海村生活の研究』も出されたのであり、先の書き出しに続いて、柳田はこの海村調査計画に関して、昭和十一、二年頃に立てられたが、戦争が進み、経費が続かず、また地方の人心が険しくなり、予定の三分の二に達したところで中断したことにより、「大きな期待を繋げて居た南方の諸島」などが後回しになってしまった。そして「それらの島々が、其後の僅かな年月のうちに、殆ど根こそげの変質変貌してしまったこと」が、「たとへ様も無く残念なこと」だったと語っている。これは沖縄諸島をさしていることはいうまでもあるまい。

f:id:OdaMitsuo:20191205170256j:plain:h115(「新国学談」)

 それに加えて、島の事情は「意外」なことに、農山村における類推がほとんど望まれず、近くの二島でも生活様式が異なり、また同じ島であっても言葉がちがったりする。また逆に遠く相隔った島や岬の端に習俗の一致が見られたりする。「大体に住民の移動が比較的新らしく、且つ水上の交通を支配した法則には、よほど陸上のそれとはちがうものがあつたからと、解しなければならぬ現象が海村には多かつた」のであり、そのことに気づいていなかった。そして柳田は「新手帖を豊かに供給して、自由に其見聞を採録し、かつは其所得を以て汎く総図の開悟に役立たせるやうにしたい。是が我々の生涯の志である」と結んでいる。

 なおここでいう「新手帖」とは海村調査のための新たな採集手帖をさしている。この「採集手帖」の様々な例に関しては書影を含め、拙稿「橋浦泰雄と『民間伝承』」及びその「資料5・6」(『古本探究Ⅲ』所収)を参照されたい。
古本探究3

 柳田は『海村生活の研究』の出版の翌年に「宝貝のこと」や「海神宮考」を書き、二十六年には「みろくの舟」、二十七年には「海上の道」などを発表し、それらは三十六年に出版された『海上の道』(筑摩書房、岩波文庫)としてまとめられていく。それこそこの柳田の『海上の道』は、沖縄諸島への追悼と敗戦、及び各報告にまったく言及していないけれど、『海村生活の研究』をスプリングボードとして、構想されたといえるのではないだろうか。

海上の道


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