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古本夜話993  中村亮平『朝鮮童話集』

 『神話伝説大系』第十四巻の『朝鮮神話伝説集』と『台湾神話伝説集』は中村亮平編となっている。中村はその「まえがき」に当たる「朝鮮神話伝説概観」において、朝鮮の「国土そのものが、大陸との人類文化移植の橋梁の役目」を有し、神話伝説の「多くは吾日本内地の神話伝説と、密接複雑な繋がり」を示し、「神秘に興味深い謎」だが、支那との関係を抜きにして語れないと述べている。そして建国神話としての金富軾『三国史記』、一然禅師『三国遺事』、民間伝説というよりも説話というべき成俔「塘齋叢書」や『酉陽雑俎』などが挙げられていく。そこで平凡社の東洋文庫に『酉陽雑俎』全五巻が収録されていたことを思い出した次第だ。

f:id:OdaMitsuo:20200112112209j:plain:h100 三国史記 三国遺事 酉陽雑俎
 
 それに対して、もうひとつの「まえがき」の「台湾神話伝説概観」において、『台湾神話伝説集』は本連載956の佐藤融吉、大西吉寿『生蕃伝説集』、及びそこで挙げておいた『蕃族調査報告書』をベースにしていることが述べられている。しかも大西への謝辞もしたためられ、中村自身の研究による『朝鮮神話伝説集』と異なり、『台湾神話伝説集』の成立の背景がそれらに求められることを伝えていよう。

f:id:OdaMitsuo:20190924145144j:plain:h120(『生蕃伝説集』)

 中村に関しては『日本近代文学大事典』に立項があるので、まずそれを引いてみる。

 中村亮平 なかむらりょうへい 明治二〇・六・一九~昭和二二・七・七(1887~1947) 美術研究家。長野県生れ。長野師範を卒業して郷里で教鞭をとっていたが、大正七年、武者小路実篤と日向に新しき村の土地探しに歩き、翌年、家屋敷を売って家族ぐるみで入村。離村(大九)してからは大邱師範(朝鮮)の教師、美術雑誌の編集に携わったすえ、太平洋画学校を修了して都立高等家政学校(現・鷺宮高校)の教諭となる。著書に『芸術家の生活 柊の花』(大一〇・五 洛陽堂)、自伝小説『死したる麦』(大一一・九 洛陽堂)、『朝鮮童話集』(大一五・二 冨山房)、『対照世界美術年表』(昭一三.六 芸艸堂)のほか、美術関係の啓蒙解説書が一〇冊ほどある。

 ここで初めて中村のプロフィルを知ったのだが、大正時代における知的青年の象徴的な歩みがたどられているように思われる。この時代は武者小路実篤を中心とする白樺派と文芸誌『白樺』の全盛であり、それは大正七年の『新しき村』の創刊と日向への「新しき村」への移住運動へとリンクしていた。それに寄り添っていた出版社は洛陽堂で、それは中村の著書がこの版元から刊行されていることにも示されていよう。 洛陽堂については本連載526でふれているように、田中英夫の『洛陽堂河本亀之助小伝』(燃焼社)を参照されたい。

洛陽堂河本亀之助小伝

 おそらく中村も『白樺』の読者として武者小路と親交を結ぶようになり、その挙げ句に「家屋敷を売って家族ぐるみで入村」したと推測される。そのようにしてユートピア的「新しき村」ビジョンに共鳴し、はせ参じた青年たちの一人が中村だったにちがいない。しかし何があったのか、その二年後に離村し、朝鮮へと向かっている。それらの経緯と事情は自伝小説『死したる麦』に書かれているはずだが、この一冊に出会えるだろうか。

 その中村の朝鮮での収穫が立項に挙げられていた『朝鮮童話集』で、その編訳者であったことに加え、大邱師範の教師だったことから、『神話伝説大系』の編者として召喚されたと考えられる。この『朝鮮童話集』はしばらく前に入手していて、菊判変型の裸本ながら、黄色の虎に緑の木の枝と朱の実をあしらった表紙は疲れている中でも、今もなお斬新な印象をもたらしてくれる。そればかりか、カラー口絵や挿画も同様で、この一冊にふさわしい配慮がなされている。だからこそ、瀬田貞二が『落穂ひろい』において、その扉絵や挿絵をカラーページで転載しているのだろう。それは中村の「はしがき」によっても了承される。

f:id:OdaMitsuo:20200203154137j:plain:h120 (『朝鮮童話集』) 落穂ひろい(『落穂ひろい』)

 そこに中村は次のように記している。なおルビは省略する。

 先づ内地の方の皆様の前に、それからお父さんやお母さんに、次に朝鮮の人達にも、私達の朝鮮の方の御先祖様達が残して行かれたこの美しい物語を差し上げます。
 
 装幀は、いつも私の本を美しくして下さる清宮彬氏にして頂き、挿絵は木村荘八氏に描いて頂きました。私にとつてこの上ないよろこびです。
 きつと皆様にもよろこんで頂けることゝ思つています。

 この「はしがき」は大正十四年十一月付で、「大邱東雲町の客舎にて」と書かれている。中村は「新しき村」離村後、かなり長きにわたって朝鮮で教師を務めていたと思われるし、そのことで朝鮮語やその童話、神話、伝説などに通じることになったのであろう。またそれでなければ、この『朝鮮童話集』だけでなく、『朝鮮童話集』の編纂や翻訳も成立しなかったと考えられる。それに前者は「童話」「物語」「伝説」の三部仕立てだが、「伝説」は後者と重複している。

 この中村の『朝鮮童話集』は冨山房の「模範家庭文庫」の一冊として刊行されていることをふまえると、近代社の『世界童話大系』とほぼ同時代に出版されていたことになるし、それは図らずも、大正が「童話」、さらに「神話伝説」の発見の時代であったことも伝えていよう。

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