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古本夜話1000 J・E・ハリソン『古代芸術と祭式』とレヴィ=ブリュル『原始神話学』

 前回松村武雄の『神話学原論』 において、言及頻度が高い著者と著作に、ジェーン・エレン・ハリソンの『テミス―希臘宗教の社会的起原の研究』(Themis : A Study of the Social Origin of Greek Religion)とレヴィ=ブリュルの『原始神話学』がある。

f:id:OdaMitsuo:20200212153040j:plain:h115(『神話学原論』)A Study of the Social Origin of Greek Religion

 松村は前者に関して、「神話を目して集団的聖允と厳粛な意図とによつて、史譚や単なるコントからおのれを区別づけてゐるところの『呪術的意図及び力能を持つ説話』」と定義していると述べている。また後者について、松村としては疑問だがとして、レヴィ=ブリュルの見解を以下のように挙げている。すべての神話は本質的に「聖性的神話」(mythes sacrés)であり、その後期的変容が「俗性的神話」(mythes profanes)とされる。それは初源の聖性的、秘密的神話が新しい宗教的信仰の樹立を宗儀の組織化により、集団に対するその生命的重要性を喪失し、部族の伝説や民話に接近していく。そうする過程で、聖性的なものが俗性的なものへと変容していくのであると。

『神話伝説大系』がそうだったように、松村の『神話学原論』も欧米の膨大な神話研究を渉猟した上で書かれている。そうした意味合いで、刊行時の昭和十五、六年において、同書は戦前の世界的な神話学集成、松村ならではの神話学大系というべきであり、それが戦後になっての遅ればせの学士院恩賜賞へと結びついていったのだろう。

 f:id:OdaMitsuo:20200112112209j:plain:h100(『神話伝説大系』、近代社版)

 そうした一方で、その全容はつかんでいないけれども、それらの神話学関連の翻訳も刊行されたり、進行しつつあったはずだ。例えばハリソンの『テミス―希臘宗教の社会的起原の研究』は現在でも未邦訳だと思われるが、『古代芸術と祭式』はやはり昭和十六年に創元社から佐々木理訳で刊行されている。またレヴィ=ブリュルも本連載926で、『未開社会の思惟』が山田吉彦訳で昭和十年に小山書店から出されていることを既述しておいた。『原始神話学』のほうも十年代後半に翻訳が進行中だったと考えられ、こちらも昭和二十一年になってからだけれど、古野清人、浅見篤訳で創元社から出されている。

未開社会の思惟 (『未開社会の思惟』)

 『古代芸術と祭式』と『原始神話学』はいずれも創元社版ではないが、たまたま両書とも手元にあるので、それらにもふれてみたい。ちなみに前書は訳者を同じくする昭和三十九年の「筑摩叢書」版、後書は古野清人単独訳の同四十五年の弘文堂版である。

f:id:OdaMitsuo:20200214105416j:plain:h115(筑摩叢書版) f:id:OdaMitsuo:20200212211833j:plain:h115 (弘文堂版)

 先にハリソンの『古代芸術と祭式』を取り上げると、彼女はギリシア劇を典型的実例と見なし、ここに全世界にわたって広く存在する原始的な祭式より起こった偉大な芸術の明瞭な歴史的事例があることを実証づけようとしている。原始祭式とは日常行為であり、それは死んだと見られる自然の生命の再生を願った祭事となるが、狩りや戦いの踊りに表出しているように、日常生活から分離していく。そして年中行事へと移行する中で、季節祭式の春祭りを生じさせる。これはギリシアの原始春祭りに起源をもつが、それが信仰の衰退とともに形式化し、ホメロスの英雄詩の中の諸伝説と結びつき、ギリシア劇が生まれた。つまり祭式から切り離され、見世物として舞台で、ギリシア劇が演じられるようになったのであり、そこにギリシア彫刻も含めた芸術の起源が求められるのである。彼女のこの著書において、アイヌの熊祭りへの言及もあることを付け加えておこう。なお『テミス―希臘宗教の社会的起原の研究』は未見だけれど、こちらもハリソンの同様の視座に基づいているにちがいない。

 しかしレヴィ=ブリュルの『原始神話学』は原始的社会の神話、主としてオーストラリアとニューギニアの神話と原始人の固有な心性の関係にまつわる研究である。その視座は次のようなものだ。ギリシアなどの地中海の諸文明において、それらの神話を有している時期にはすでに宗教が久しく定着し、また発展して神々や半神の等級が生じ、組織立てられた礼拝、祭司などが備わり、神話は宗教というよりも、詩や造型美術に属してしまっていた。ところがオーストラリアとニューギニアの社会ではこれらに似たものは何も見られない。そこには等級にされた神性も見出されないし、固有の宗教的信仰団体も、聖職上のカーストも、殿堂も祭壇も存在しない。それゆえに古典神話学と古代文明のコンセプトで、原始的社会の神話とその役割を同じく論じることはできないので、すべての既成概念を捨てる必要がある。できれば「新しい眼」で見て、原始的神話をその環境において、ただその環境の見地から検討しなければならない。

 このような視座からオーストラリアとニューギニアの神話が選ばれていく。それは原始的神話の類型として、オーストラリアやニューギニアに関する記録が豊富で、その内容が優れていることによっている。この事実は、実際に参照、引用されているように、本連載916などのマリノウスキーの記録や研究をさしていると思われる。また先述しておいた松村の指摘する「聖性的神話」と「俗性的神話」への言及は、第六章「神話的世界の根強さ」と第七章「神話的世界と民俗学」においてなされているけれど、『原始神話学』のコアに位置づけられていないとも考えられるのである。


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