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古本夜話1010 島崎藤村『仏蘭西だより(上巻・平和の日)』とニジンスキー

 前回の島崎藤村『飯倉だより』の中に、「巴里」という短いエッセイの収録があった。それはパリの花と春を語ったもので、大正三年からのフランス滞在時の回想に他ならない。
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 藤村は大正二年四月に船で渡仏し、五月にパリに到着する。そして八月から『東京朝日新聞』に「仏蘭西だより」を断続連載している。同三年には第一次世界大戦が始まり、巴里に危機が迫り、中仏のリモオジュに逃れたりしていたけれど、五年の四月にはパリを発ち、七月には帰国している。つまり藤村は三年ほどをフランスで過ごしたことになる。その間の大正四年に『平和の巴里』(左久良書房)『戦争と巴里』(新潮社)という二冊の紀行を出版している。
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 これらの二冊は未見だけれど、前者と思しき『仏蘭西だより(上巻・平和の日)』は手元にあり、その後者だと見なせる下巻は「戦時に際会して」なるタイトルで、大正十三年に新潮社から出されている。これらも飯倉時代の産物となろう。まず巻頭には「セエヌ河畔」とある古本屋とノオトル・ダム寺院の二葉の写真が掲げられ、続いて「序」が置かれている。この「序」の日付は九月三日で、「仏国リモオジユの客舎にて」と記されているように、パリの危機を受け、中仏へと避難した大正三年を意味しているとわかる。そしてそのために画家の足立源一郎が帰国するので、「この書を托します」ともあった。それが前述の「仏蘭西だより」の続きで、『平和の巴里』として、左久良書房から刊行され、大正十三年に新四六判特製となって再刊となったのであろう。それは新潮社が藤村の渡仏に際し、その著作権を得ていたことも作用しているし、その事実は奥付に藤村の検印もないことに反映されていよう。
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 それらはともかく、『平和の日』において意外だったのは、藤村が熱心にオペラや音楽会や舞踏劇などに通っているという事実だった。ロンドンからやってきた小山内薫と連れ立って、「露西亜の舞踏劇」まで見に行き、それを次のように描いている。「パンの神に扮したニヂンスキイが腰から下を彩りまして、人間の身体で居ながらそれで獣の形を失わずに、昼寝の夢から覚めた時の静かな詩のやうな戯れを見せました」と。これはオペラ座でニジンスキーが「牧神の午後」を踊っているシーンである。

 さらに続けて二人はニジンスキーを見ようとし、シャンゼリゼの新しい劇場に出かけていく。

 小山内君は巴里でニヂンスキイの舞踏劇に接することは得難い機会だから出来るだけ味わつて置きたいと言ひますし、私もまた露西亜に興りつゝある種々な新芸術を知るに就いて解を得ることが多いと思ひました(中略)。私達があの切符を買ふのは読みたいと思ふ書籍を買ふと同じ心地でした。(中略)
 番附を見ると曲によつては舞踏『パントマイム』、舞踏『シンフォニイ』、或ひは舞踏の戯曲としてあります。(中略)それほど音楽と密接したものでした。又、詩や戯曲の世界と一致したものでした。斯の舞踏劇では人の思想や情熱が全く言葉の力を借りることなしに流れ出して居ます。更に言へば、舞踏の性質をずつと押し進めて行つて在来の劇や『オペラ』で表はすことの出来なかつた新形式を開拓したものとも見えます。
 ニヂンスキイの扮したダフニイと、女優カルサヴヰナの扮したクロオエは最もそれを証據立てました。(中略)殊にニヂンスキイの舞踏の中で、棒を持つて高い飛躍を繰返した時なぞは、その一々が活きた彫刻であるかのやうに感ぜられました。(中略)その晩帰りがけに私は小山内君に向つて『えらいところ迄行つてるものですねえ。』と感心して話した(後略)。

 藤村がニジンスキーの舞踏劇をリアルタイムで見ていたとは思わなかったし、またその鑑賞眼は藤村ならではのものだと思われるので、長い引用となってしまった。ただこれだけを読むならば、誰も藤村が書いたと思いつかないであろう。

 鈴木晶の『ニジンスキー 神の道化』(新書館)によれば、ニジンスキーのパリ公演は一九〇九年五月のシャトル座で幕を開けた。それはパリの観客たちを震撼せしめ、それから十年以上にわたる西欧のバレエへの熱狂の始まりでもあった。鈴木の同書にはパリ公演におけるニジンスキーの「牧神の午後」、カルサブィナとの「レ・シルフィールド」の共演の写真なども掲載されている。
ニジンスキー 神の道化

 藤村の渡仏は大正二年、つまり一九一三年だったから、パリにおけるニジンスキーと「露西亜の舞踏劇」の人気は絶頂を迎えつつあった時期だと考えられる。それゆえにパリ到着の早いうちに、小山内薫が来るのを待ち構え、劇場へと出かけたのであろう。本連載394でふれたジョフリー・ウィットクフォース『ニジンスキイの舞踊芸術』(馬場二郎訳、クララ社、後に『ニジンスキーの芸術』として復刻、現代思潮社)が出されるのは大正十三年なので、それに先駆け、藤村と小山内はニジンスキーの舞踏劇に立ち合っていたことになろう。
f:id:OdaMitsuo:20200314114041j:plain:h115 (『ニジンスキイの舞踊芸術』) ニジンスキーの芸術

 なおこれも意外というしかないのだが、藤村は本連載933のシルヴァン・レヴィとも会っていたことを付記しておこう。


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