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古本夜話1017 アーサー・シモンズ、岩野泡鳴訳『表象派の文学運動』

 シモンズの岩野泡鳴訳『表象派の文学運動 』がもたらした大きな影響を最初に知ったのは、河上徹太郎の『日本のアウトサイダー 』(新潮文庫)の「岩野泡鳴」の章においてだった。そこで河上は泡鳴訳の独特の文体と語彙によって、ボードレールやヴェルレーヌの世界に手引きされたと述べ、「二十そこそこでこれを読んで魅了され、ちょうど自分が憧れていた世界がそこに現されているのを、正しくこの文体によって理解した」と書いていた。
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 また河上は戦前に書かれた「岩野泡鳴」(『岩野泡鳴集』所収、『明治文学全集』71)でも同書が与えた小林秀雄や中原中也への影響を語り、「三人は専ら此の書の語彙を以て会話をした」と記している。それほどまで泡鳴訳『表象派の文学運動』は彼らをして、「陶酔と眩暈の中に陥れ」たのである。そしてボードレールもヴェルレーヌもランボーも、ネルヴァル、リラダン、ラフォルグ、マラルメ、ユイスマンスなども、多くの著書が原文で示された「解題と註」、同じく「索引」とともに、日本にお目見得したことなる。その強い影響を受けたのは前述の三人ばかりでなく、春山行夫もそうだったし、その他の詩人、作家、批評家に対しても同様だったと思われる。
『明治文学全集』71

 しかし河上の著書を読んだ学生時代に、この泡鳴訳『表象派の文学運動』は稀覯本となっていたゆえなのか、古本屋で出会えず、その代わりにペンギンブックスに入っていたので、原書で読むしかなかった。このことは拙稿「クルツィウス『ヨーロッパ文学と中也』」、『古本屋散策』所収)で書いている。その後で、本連載1014でふれた昭和十二年に白水社から出た宍戸儀一訳の『象徴主義の文学』を見つけ、ようやく邦訳を読むに至ったが、泡鳴訳にはずっとめぐり会えないでいた。
古本屋散策

 そしてそれを実際に岩野訳で読めるようになったのは、平成八年に臨川書店から刊行の『岩野泡鳴全集 』第十四巻に『表象派の文学運動』が収録されたことによっている。また同巻所収の泡鳴のいくつかの「日記」によって、『表象派の文学運動 』は他社で出版予定だったが、流れてしまい、新潮社の中村武羅夫のところに持ちこまれたもので、原稿料八十円の「売り切り」だったこと、文中のフランス語は大杉栄が確認したことがわかり、大正二年十月に発売され、その出版広告が同巻の口絵写真に見える。河上たちを夢中にさせたThe Symbolist Movement in Litterature の訳書はどのように出版されたのだろうか。「新芸術、新思想、新生活の宝庫」のギャッチコピーに続く、宣伝文句と内容紹介を引いてみる。
岩野泡鳴全集

 本書は寔に世界的名著也。苟も文芸の事を口にするものにして、本書の名を知らざるは無からん。題して『文学運動』と云ふと雖も、実は新芸術、新思想、新生活也。ヱ゛ルレンを中心として初期デカダンの諸詩人生活より、神秘派のメテルリンクに至る、仏蘭西表象主義の文学的、哲学的、宗教的運動を評論せるもの。英国表象派の随一たるアーサーシモンズの著にかゝり、我が国に於ても、新思想界有識者の虎の巻となせるもの也。自然主義的表象主義の主張者岩野泡鳴氏、此の書の名徒らに高くして、而も未だ広く邦人に親しまれざるを憾み、こゝにその全訳を提供せらる。稿を更ふること再四、異常なる苦心を重ねたる模範的翻訳によりて、言々句々宝石に比ふべき原文の真趣を、さながらに玩味するを得せしむ。尚ほ初学者の為めに、丁寧懇切を極めたる索引を附する等、訳者の用意のいかに周到なるかを知る可き也。

 このようにしてフランスの象徴主義者たちが、泡鳴によって日本へと召喚されたのである。例えばランボーは「渠の精神が芸術家の精神でなく、実行家のであつたことだ。渠は夢想家であつたが、すべてその夢想は発見であつた」とされ、ヴェルレーヌは「人としてすべての刹那にその十分な価値を与へた者、すべての刹那からその刹那が彼に与ふべきあらゆる物を得た者だ」とされる。

 そしていみじくも広告の言葉にあるように、このシモンズの泡鳴訳を「虎の巻」として、小林や河上のランボーとヴェルレーヌの翻訳、及び論考が書かれていくことになる。また小林にしてみれば、象徴主義の「様々なる意匠」を意味していたとも考えられる。その系譜上に中原中也、富永太郎、大岡昇平も続いていくのである。

 しかし春山行夫の場合、小林や河上たちとは異なる眼差しで、『表象派の文学運動 』を読んだのではないだろうか。それは小林たちが十九世紀の象徴主義に固執したことに比べ、春山はシモンズの著作に示された「文学運動」の行方、すなわちそれが必然的に生み出した二十世紀文学の流れであり、「時代精神」や「sense」の変化へと引きつけられていく。

 それに春山が『ジョイス中心の文学運動』の「はしがき」でいっているように、二十世紀の「Contemporaryな文学」として出現しつつあったシュルレアリスムや未来派の動き、フランスやイギリスにおけるあまたのリトルマガジンと限定版詩集、それらに伴う小出版社の立ち上がりなどが併走していた。

 前述したように泡鳴訳の出現は大正二年であり、同九年に改装版が出され、後者に至って読者への影響は顕著になったとされる。その間のヨーロッパ文学を見ると、プルーストの『失われた時を求めて』、カフカの『変身』、ジョイスの『ユリシーズ』、エリオットの『荒地』、ブルトンの『シュルレアリスム第一宣言』が立て続けに刊行され、春山のいう「Contemporaryな文学」がどよめいていたし、それらをシモンズの『表象派の文学運動 』のように見取図を描き紹介すること、それが『ジョイス中心の文学運動』にこめた目的ではなかったか。そう、泡鳴訳が十九世紀のフランスの象徴主義者たちを日本へとお目見得させたように、二十世紀初頭のジョイスと『ユリシーズ』をコアとする文学運動を、同時代の日本文学へとエポックメイキング的に伝え、ジョイントさせること、それが春山の目的であったのではないだろうか。その模範として、泡鳴訳『表象派の文学運動 』があったことを、春山の泡鳴への謝辞はそれこそ「象徴」しているように思われる。

 なお近年になって樋口覚と前川祐一による新訳がいずれも『象徴主義の文学運動』として、国文社冨山房から刊行に至っている。
f:id:OdaMitsuo:20200406161531j:plain:h110(国文社版) 象徴主義の文学運動 (冨山房版)


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