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古本夜話1022 新潮社『日本詩集』と菊地康雄『青い階段をのぼる詩人たち』

 岩野泡鳴も関係し、本連載1008でも『日本詩集』が大正を代表する詩人の集まりだったという伊藤整の証言を引いておいたばかりだ。ただ新潮社の詩話会編『日本詩集』は紅野敏郎の『大正期の文芸叢書』にも掲載されていないし、「叢書」とも銘打たれていないけれども、同じようなシリーズとして分類できるだろう。私の場合、『日本詩集』は大正十一年版の一冊を所持しているだけだが、これは大正八年から十五年にかけて八冊が刊行されている。
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 手元にある大正十一年版は四六判のフランス装で四百ページに及び、生田春月から尾崎喜八に至る、当時を代表する三十七人の詩が収録され、余録として大正十一年の詩論の抜萃、詳細きわまる詩、及びその評論や翻訳の一年間の出版や雑誌掲載状況、会員住所録、詩話会規則も付されている。幸いにして『日本詩集』全八冊の詩人細目は『日本近代文学大事典』の「叢書・文学全集・合著集総攬」にあり、次のような解題が寄せられている。

 詩話会に集まる人々の手でつくられたアンソロジー。その年の創作を中心に自選の詩が集められている。当時の詩壇の毎年の収穫が一望の下に眺められる。わが国における年間詩集の嚆矢。

 「詩話会規則」によれば、詩話会は新潮社内に置かれ、「日本詩壇の興隆を期し、壇人相互の交情を温め、壇の進歩発展を庶幾する団体」とされ、『日本詩集』と月刊詩誌『日本詩人』を発行するとある。新潮社と詩話会の関係はきわめて密接だったようで、巻末広告には会員たちが著者や読者である「泰西名詩選集」や「現代詩人叢書」を始めとする多くの詩集が掲載され、大正時代が小説や戯曲だけでなく、詩も盛んに生み出され、それらの動きが新潮社のような出版資本とも結びつけられていたことを教えてくれる。このような詩との連動もあって、新潮社の円本時代の『現代詩人全集』や『生田春月全集』の企画が成立したのであろう。

 この詩話会の創立事情については詳細がつかめていなかったが、「現代詩の胎動期」とされる大正九年前後(一九二〇年代)を描いた菊地康雄の『青い階段をのぼる詩人たち』(青銅社)収録の「『詩話会』分裂と新しい動き」を読むに及んで、ようやくそのアウトラインがつかめてので、ここに紹介してみよう。
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 大正六年一月に編集発行人を山宮允とする『詩人』、室生犀星と萩原朔太郎が創刊した『感情』、川路柳虹が主宰していた『伴奏』の三詩社の主催で、第一回の詩談会がメイゾン鴻の巣で開かれたことがきっかけとなり、これらの四人に加えて、柳沢健、富田砕花、西条八十、福士幸次郎、茅野蕭々などが諮って、同年十一月に万世橋にあったレストランミカドに当時の詩人の主流が集まり、詩話会が結成された。

 当時の詩壇は『白樺』や『新思潮』の隆盛に押されがちで、不振でありながらも小さな詩雑誌や小集団に割拠し、論戦ばかりが繰り拡げられていた。そこで山宮と川路が最初の発起者となって、紙上の論戦よりもお互いに胸襟を開き、詩そのものを語る会を開こうとしたのである。そして規則も制限もなく、公平にあらゆる集団に呼びかけたので、先輩の岩野泡鳴、河合酔茗、野口米次郎、堀口大学、生田春月、佐藤春夫なども姿を出すようになった。そして『日本詩集』の企画も出された。菊地の『青い階段をのぼる詩人たち』から川路の証言を再引用してみる。

 その間に年刊詩集の計画を私と山宮氏とで提案し、泡鳴氏の仲介で新潮社へ話をつけ、私がその具体的条件で佐藤義亮氏に逢ひ当時の金で百円を印税として貰ふ約束が出来た。それが『日本詩集』なのである。その第一集は大正八年四月に出た。

 ここでも泡鳴と新潮社の関係を知らされる。それはともかく、最初の『日本詩集』の上梓後に委員の一人になった白鳥省吾によれば、玄文社の長谷川巳之吉にも出版交渉をしたという。いうまでもなく長谷川は後の第一書房の社主である。白鳥と一緒に委員となった福田正夫は『近代出版史探索Ⅱ』381でふれているが、『民衆』による詩人で、この雑誌に寄稿していた白鳥、百田宗治、富田砕花などは「民衆詩派」と呼ばれ、所謂「芸術派」の北原白秋、三木露風、日夏耿之介たちと詩話会を二分していた。

 詩話会は大正十年に島崎藤村誕生五十年祝賀会を催し、同じく新潮社から詞華集『現代詩人選集』を上梓したが、これを最後に「芸術派」と「民衆詩派」は対立し、前者は脱退して新詩会を設立し、アルスから『現代詩集』を刊行した。詩話会は「中立派」の川路や福士、及び「民衆詩派」の人々が運営の中心になって続けられ、月刊『日本詩人』を創刊し、『日本詩集』も大正十五年まで計八冊が編纂刊行された。また『日本詩人』の創刊と同時に、玄文社から『詩聖』も出て、詩話会の分裂は多くの波紋を生じさせた。
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 これらの動向は様々に解釈されているが、それこそ「現代詩の胎動期」における出版社の争奪、もしくは覇権闘争のようにも思える。詩人の側から見れば、出版社の奪い合い、出版社の側から考えれば、新潮社、アルス、玄文社の現代詩の争奪戦のようにも映る。しかし『現代詩集』は第一輯しか出されず、『詩聖』は大正十二年で休刊し、それでも『日本詩集』は十五年まで存続したが、それは新潮社という出版資本の体力を見せつけただけで、すでに端境期の勢いを失ってしまい、廃刊に至ったのであろう。したがって『日本詩集』の刊行も現代詩簇生期の出版ドラマの一コマと見なせよう。


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