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古本夜話1025 伊藤整『新心理主義文学』と川口喬一『昭和初年の「ユリシーズ」』

 本連載1016の昭和八年の春山行夫の『ジョイス中心の文学運動』に先行して、昭和七年に伊藤整の『新心理主義文学』が、やはり春山編集の「現代の芸術と批評叢書」の一冊として、厚生閣書店から刊行されている。ただ私の場合、これは未見だし、入手していないので、『伊藤整全集』(第13巻所収、新潮社)の同書を参照していることを断わっておく。
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 同巻の月報に春山が「伊藤整君の回想」を寄せ、伊藤との出会いは百田宗治の紹介で、交流するようになったのは昭和三年の『詩と詩論』創刊後だったと書いている。それと並行して、「現代の芸術と批評叢書」も編集していたので、それに伊藤の『新心理主義文学』を入れた。「この本は伊藤君の評論集では最初のもので、また新心理主義文学について書いた本としても最初で、そして結果的には多分、この分野で唯一の書となった」と。

 しかしこの「最初」の「新心理主義文学について書いた本」は、伊藤の「自己の辯(序にかえて)」によれば、「あらゆる種類の非難と嘲笑と否定と罵言と、また僅少の好意ある忠告とを浴び返して来た」とされ、「一体ものを書いて行くということ、意見を発表してゆくということは、こんな物々しい批判に直面しなければならないものなのだろうか」との嘆息すらも発せられている。

 この『新心理主義文学』は「編集後記」に初出誌が掲載されているように、昭和五年から七年にかけて、様々な雑誌に発表された二十三編の論考の集成である。本連載1015で既述しておいたように、それらとパラレルに、伊藤は永松定や辻野久憲とジョイスの『ユリシイズ』の共訳を進め、昭和六年には第一書房から『ユリシイズ』前編を刊行している。ちなみに後編は九年に出され、「淫欲描写」の理由で発禁処分を受けている。
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 つまりこの昭和初期の時代にあって、北海道の小樽高商出身の伊藤は処女詩集『雪明りの路』を自費出版し、昭和四年には同人雑誌『文芸レビュー』を創刊し、新心理主義的な小説や評論を発表し、六年には金星堂の文芸雑誌『新文学研究』の編集責任者となり、二十世紀ヨーロッパ文学の紹介や移入に大きな役割を果たしたとされる。
雪明りの路 (日本図書センター復刻)

 それらを代表するのは『新心理主義文学』収録の「プルウストとジョイスの文学方法」(『思想』第一〇七号所収、昭和六年四月、岩波書店)であろう。プルウストは本連載1006の『スワンの家の方』、ジョイスに関しては自ら共訳の『ユリシイズ』により、「現代文学に於ける典型的な二つの頂点」をなす「小説の方法」を論じている。それはまだ明確なタームとして提出されていないが、前者は「内的独白」、後者は「意識の流れ」という従来のリアリズムと異なる記述方法と見なしていいだろう。

 このような論考に対して、伊藤が先述の「自己の辯(序にかえて)」で挙げているような「あらゆる種類の非難と嘲笑と否定と罵言」が浴びせられたのである。それをトレースしているのは川口喬一の 『 昭和初年の「ユリシーズ」』の中の第三章「伊藤整氏の奮闘」に他ならない。そこでまず伊藤は北海道から上京し、東京商大に籍を置きながら新しい文学の方向を模索していたとされ、川口は次のように書いている。
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 遅れてきた青年に特有の鋭敏な嗅覚で、伊藤は『ユリシーズ』の新しさを嗅ぎ出した。そしてほとんど時間を置かずに『ユリシーズ』の翻訳に取りかかる。いったい彼は『ユリシーズ』に何を求め、何を見出したのか。伊藤のたどった軌跡の中に、われわれは日本におけるジョイス受容の典型的な形を見ることができる。それは果敢な、ある意味できわめて不幸な、形式に偏向した、受容の軌跡でもあった。

 そして伊藤の回想を引き、翻訳が始められた昭和五年当時、伊藤は二十六歳、永松は二十七歳、辻野は二十三歳で、『詩・現実』の編集者の淀野隆三の勧めによって企てられたこと、淀野たちによるプルーストの『失われた時を求めて』の翻訳も始まっていたことを喚起させている。そして『ユリシーズ』前編の刊行は「画期的な事件であった」としながらも、川口は「遅れてきた青年」に加えて、「二〇歳代半ば、英文学の専門教育を受けたことのない伊藤」とネガティブな伊藤の肖像を提出している。

 続けて川口は伊藤が『詩・現実』の第一冊に発表した「ジェイムズ・ジョイスのメトオド」(『伊藤整全集』第13巻所収)を取り上げる。これは伊藤にとって、「ほとんど処女論文」で「新心理主義文学」の「第一声」だったが、明らかに『ユリシーズ』と無意識の手法を読み違え、言語形式に関する一面的なもので、それが「悲惨な誤訳」にもつながっていると指摘する。それに対し、英文学者の土居光知の『ユリシーズ』とその翻訳が比較され、伊藤たちの稚拙な受容ぶりとはやはり「年期が違う」とまで書かれている。

 しかし『ユリシーズ』のような作品の本邦初訳が「悲惨な誤訳」を伴ってしまうのは必然でもあり、それを戦後の「英文学の専門教育を受けた」川口が断罪するのは後知恵、後のアカハラのようにも感じられる。これは本連載1015でも指摘しておいたが、シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店のシルヴィア・ビーチに向けられた視線も同様であるからだ。そこには「遅れてきた青年」に、ジョイスの『ユリシーズ』を本邦初訳されたアカデミズムの悔しさが潜んでいるのではないだろうか。

 それは戦後になっても続き、本連載599の昭和二十五年の「チャタレイ裁判」において、検察側証人に、同1012の土居光知と斎藤勇が加わっていることに表出しているように思われる。またこれは川口の著書の参考文献に挙げられていないが、楠谷秀昭の『伊藤整』(新潮社)における『ユリシーズ』翻訳をめぐる三章「奸智と微笑」も参照されていると考えられる。
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