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古本夜話1026 伊藤整と小林秀雄「心理小説」

 前回、ジョイスの伊藤整たちの『ユリシーズ』の本邦初訳に対して、英文学アカデミズムにおける面白くない思いが潜み、それが川口喬一の『 昭和初年の「ユリシーズ」』にも見え隠れしていることを既述しておいた。
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 それは仏文学アカデミズムの系譜に属する小林秀雄も搦手ではあるけれど、同様だったと思われる。伊藤が昭和六年に発表した「新しき小説の心理学的方法」(「方法としての『意識の流れ』」に改題、『新心理主義文学』所収)への反論にも表出していよう。小林はその「心理小説」(『小林秀雄全集』第一巻所収、新潮社)において、伊藤のいう話術をベースとする十九世紀小説は極点に達し、これからは衰滅に向うので、ジョイスなどによって創始された意識の流れに重点を置き、人間の内部現実を主体とする心理主義文学が小説の発展の鍵となるとの言説に対し、次のようにいう。
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 私はジョイスに就いてはユリシイズの仏訳を通じて僅かに知るのみだが、私にはこの小説が将来の小説方法の準度となるとはどうしても思はれなかつた。勿論私はジョイスを完全に了解したなどとは言へない、頭脳の強度に於いて、教養の深刻に於いて、到底追い附いては行かれない作家だと思つてゐる。かふいふ作家の物を読むといつも私はがつかりする。どうしようかと思ふ。将来小説手法のお手本がみつかつたといつて喜ぶ暇があるといふ事が、第一解らない。伊藤氏等の困難なジョイスの翻訳紹介の努力を私は多とするものである。ことに今日、装飾的に彩色を増して、本質的な何等の技巧の革命にも苦しまない吾が国の文学へは勿体ない程のたまものだと信ずるのだが、わたしはたゞかういふ傑作が多くの模倣者達の餌となる点に疑問を持つ。一体伊藤氏の言はれる、話術に基礎を置いた、つまり極普通なものの言ひ方で書かれた在来の小説が、本当に行き詰つてゐるのであるか。小説の極点は十九世紀で終つたと映画に色気を使ふのと、新しいお手本がひろげられた気で、浮き腰になるのとどつちが悧巧なのであらうか。

 いうまでもなく、小林は伊藤が主張するところのジョイスの「意識の流れ」という新技法にしても、「様々な意匠」であり、「多くの模倣者達の餌」となるだけだと語っていることになる。そして「在来の小説が、本当に行き詰つてゐるのであるか」の否定例として、ジョイスのブルウム以上にリアルな「フロオベルは、どんな具合に女を死なせたか」を問い、『ボヴァリー夫人』のシャルルの最初の妻の死のシーンを「何とも凄い文章だ」とし、原文で引き、さらに自ら訳してみせる。

 八日経つて、中庭で、布などを拡げてゐると、突然血を吐いた。翌日、シャルルが窓のカアテンを引かうと、くるりと背中を見せた時、女は、あゝ、苦しいと溜息をはき、気が遠くなつた、女は死んでゐた。

 ジョイスと伊藤の「新心理主義文学」がこのようなフロオベルの「何とも凄い文章」を生み出しているのかと小林は戦略的に問い、ジョイスと『ユリシイズ』のもとへは「到底追い附いては行かれない作家」と見なし、論点をずらしてしまっている。
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 しかもこの言及と展開はアーサー・シモンズの『象徴主義の文学』の「エミイル・ゾラ」の反復なのである。しかもそれは本連載1017の岩野泡鳴訳の『表象派の文学運動 』(一八九九年初版)には収録されておらず、一九一九年にアメリカ版で増補されたもので、それをテキストとした同1014の宍戸儀一訳『象徴主義の文学』で読むことができる。だがこの白水社版は昭和十二年刊行なので、川口喬一は河上徹太郎がシモンズに傾倒し、それらのフランス近代作家論を訳していて、その中のゾラ論を読んでいたのではないかと推測している。

 これは小林と伊藤の問題だけでなく、私もゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の翻訳者でもあり、ぜひともふれておかなければならない。そこでシモンズはゾラをまったく否定的に論じている。ゾラは何を書くにしても、ひとつとして省かず、一切のことを書こうとしているので、その描写はまったく魅力を備えていない。それに正確な言葉を見出しておらず、ただ言葉を倦むことなくこね回し、そのために長々しい描写になってしまう。だから巧みな表現も芸術的効果も挙げられず、凡庸にして卑猥な考えを露出させるだけだ。またゾラは悪文化で、文章に魅力がなく、文学を形成しておらず、人間性の中に獣人だけを見ている。

 そのゾラに対して、フローベールが称揚され、彼は「他のあらゆる細部から、描きつつある場面をぴったり表はすものを選びだし、それを巧妙な精確でもつて書く」とし、「『ボヴァリイ夫人』のなかから、フロオベエル風の特徴的な細部描写を取り出してみ」せるのである。それが小林の原文を引用し、さらに自ら訳出したシャルルの最初の妻のシーンということになる。

 シモンズのゾラへの論難のよってきたるべきところを詳らかにしないし、ゾラの訳者として、それを肯うわけにはいかない。それに加え、伊藤やジョイスの『ユリシイズ』に対し、シモンズと同じ論法を反復したのは論点をずらしてしまったように思われる。

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