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古本夜話1027 春山行夫『文学評論』と小林秀雄

 昭和九年に春山行夫は厚生閣書店から『文学評論』を上梓している。これは菊判三七〇ページに及び、春山の「私の『セルパン時代』」(『第一書房長谷川巳之吉』所収、日本エディタースクール出版部)によれば、昭和八年に厚生閣を退社するにあたって、社長の岡本正一が春山の在社中に社業が向上したことに感謝し、『文学評論』を出してくれたという。しかも同書は春山の文壇デビューの論稿の集積ともいえるものだった。彼は書いている。
f:id:OdaMitsuo:20200421000023j:plain:h115 (『文学評論』)第一書房長谷川巳之吉

 私が批評家として文壇にデビューしたのは、昭和六年(一九三一)八月(『詩と詩論』編集時代)の『新潮』に初めて寄稿した「意識の流れと小説の構成」という評論で、これは多分文壇に欧米の前衛的な新しい文学の本質やテクニックを伝えた最初のものだったとおもう(中略)当時、『朝日』で杉山平助が「豆戦艦」という小さなコラムで、辛辣な時評を連載していて、学芸界からおそれられていたが、どういう風の吹き回しだったか(私の古い文壇に対する造反の精神に同感したのだろうとおもうが)、無条件でその評論を推称してくれた。(中略)
 この推称は、その原稿を採用した『新潮』の主幹中村武羅夫氏の目に止まり、直ちにつぎの原稿の依頼をうけた(中略)。これがきっかけで私は『新潮』の執筆家として迎えられ、(中略)同時に新潮の座談会の一員に加えられ、それと合わせて同年中に五回執筆を依頼された。

 また「〈意識の流れ〉と小説の構成」を『文学評論』に収録するに際して、このエッセイで「はじめて原稿料というふものを貰つた」し、『文藝春秋』でも賞讃されたと付記している。それゆえにこの後で春山は杉山、中村、「中村氏の分身ともいうべき誠実で、勉強家で、文壇の動きに不思議な先見性をもった編集担当者楢崎勉氏」の三人から「異例の推輓を受けたこと」に謝辞を捧げている。楢崎に関しては、彼とその時代を描いた大村彦次郎の『ある文藝編集者の一生』 (筑摩書房)があるが、残念ながら春山は出てこない。

ある文藝編集者の一生

 これらの事実からわかるように、春山は昭和三年に『詩と詩論』を創刊し、四年には「現代の芸術と批評叢書」の刊行を始め、新たな外国文学とモダニズムの紹介の前衛を担っていたにもかかわらず、他の出版社からはまったく原稿依頼がなかったことを伝えている。それは昭和初年における日本の「知識人の覇権」問題を意味しているのではないだろうか。

 このタームはアンナ・ボスケッティの『知識人の覇権』(原書Sartre et 《Les Temps Modernes》 、石崎晴己訳、新評論)という邦訳タイトルを借用している。同書はピエール・ブルデューの文化資本やハビトゥスなどの理論に基づき、サルトルが戦後のフランスにおいて、エコール・ノルマル出身の資本に加え、出版社と雑誌などの文化資本によって、いかにして文学界と哲学界の覇権を果たしたかを生々しく描いている。それと同じような問題が日本の出版や文学の世界にも起きていたし、その事実を春山の例に見られるように思う。
f:id:OdaMitsuo:20200423161032j:plain:h110 Sartre et 《Les Temps Modernes》

 それはまず昭和四年の『改造』懸賞評論から始まっていると考えられる。これは昭和文学史が伝えているように、一等は宮本顕治「敗北の文学」、二等は小林秀雄「様々なる意匠」であった。だがその三等が春山行夫「超現実主義の詩論」だったことはほとんど知られていない。

 それをふまえて、この三人のポジションを確認すれば、宮本はプロレタリア文学者、小林はランボーを卒論としたフランス文学者、いずれも二人は学部は異なるにしても、東京帝大出身である。それに対し、春山は詩人でモダニスト、名古屋出身の市立商業中退で、ここに帝大と地方の商業中退というブルデュー用語の「ディスタンクション」が生じる。しかし春山はほぼ独学で英仏語を会得し、英仏洋書の読書量は宮本や小林をはるかに凌駕するものだったと推測できるし、これがとりわけ歳を同じくする小林との「知識人の覇権」問題へとリンクしていたはずだ。

 これに出版社や雑誌のことを重ね合わせれば、春山は厚生閣や『詩と詩論』といった小出版社やリトルマガジンに属し、他からの原稿依頼がほとんどなかった。ところが小林は『改造』から始まり、『文藝春秋』などにも書き、昭和六、七年には白水社から、正続『文芸評論』を刊行し、八年には『文学界』創刊に至っている。春山にとって昭和六年八月になるまで、原稿料をもらったことがなかったことに比較すれば、小林は出版社と雑誌の王道を歩んでいたことになろう。

 そのような出版環境の中にあって、春山が『文学評論』を刊行したのは、こうした出版と雑誌覇権に対する挑戦だったと思われる。この『文学評論』について、言及しているのは管見の限り、小島輝正の『春山行夫ノート 』(蜘蛛出版社、昭和五十五年)だけであろう。そこで小島は『文学評論』に二章を割き、「昭和6年から9年というこの時期の文学状況のなかで、文壇評論家としての春山行夫がどのような位置を占め、どのような役割を果したか、また果しえなかったか、ということを考察」している。「『文学評論』二四篇の春山エッセーは、畢竟は敗北に終るその春山の孤独な戦いの軌跡」であったとしても、それはこの時期に、春山の執筆誌が増加し、文壇批評家としての地位が確保されていったことも含まれていよう。
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 小島は春山の『文学評論』が、小林の『文芸評論』に「直対して掲げられた旗幟」で、『改造』懸賞評論に続く小林への再挑戦に他ならなかったと指摘している。そしてそこに「春山が立ち向った同年代の相手のほとんどが――小林秀雄はもとよりとして、官学出身のエリートたちであったことを考えると、名古屋の商業学校出でほとんど独学の努力家であって春山の鬱然たる敵愾心」を感じると書いてもいる。日本においても、昭和初年にこのような「文学者の覇権」のドラマが展開されていたことになろう。


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