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古本夜話1031 百田宗治のポルトレ

 本連載1028の安西冬衛『軍艦茉莉』(厚生閣書店)の巻末広告に、「現代の芸術と批評叢書」に続いて、『詩と詩論』と百田宗治の著作が掲載されている。百田のそれらは『新しい詩の解題とその作り方』『詩の鑑賞』『陋巷風物詩 冬花帖』『鑑賞 芭蕉句抄』『鑑賞 藤村詩帖』の五冊である。中央公論社の『日本の詩歌』13 所収の百田宗治「年譜」を見ると、『詩の鑑賞』は昭和三年十一月刊行とされているので、これは春山行夫の企画編集によるものと考えていいだろう。ただ『新しい詩の解題とその作り方』は大正十四年の『新しい詩 味ひ方と作かた』(精華堂)の再版と見なせるし、春山が厚生閣に入社する前に出されていたのかもしれない。

f:id:OdaMitsuo:20200424112814j:plain:h120(『軍艦茉莉』) f:id:OdaMitsuo:20200501112258j:plain:h120

 春山行夫は「伊藤整 君の回想」(『伊藤整全集』13、「月報」所収)で、百田に関して次のように書いている。
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 百田宗治という人は、自分の書く詩だけを規準にして、ほかの傾向の詩人を排斥するようなアタマの悪い詩人ではなかったので、いろいろ異った傾向の人々が周囲にあつまった。同氏は出版社に顔のひろい人で、私はその世話で厚生閣にはいり、『詩と詩論』を創刊したが、伊藤君はおなじように百田氏の世話で金星堂にはいった。金星堂は新文学のメッカで、『文芸時代』(大正十三年―昭和二年)を刊行し、川端康成、稲垣足穂その他の新興芸術派の初期の作品集を出版していたが、伊藤君がこの社に入ったときはその波がほかの出版社に移っていた時期であった。

 ここで春山はどうして百田が「出版社に顔のひろい人」だったのかについて言及していない。それゆえにほとんど断片的なものでしかないけれど、百田の個人史をたどりながら、それをトレースしてみたい。なぜならば、百田は自らの作品以上に、詩雑誌『椎の木』を創刊し、その椎の木社からの全出版物は明らかになっていないが、伊藤整の『雪明りの路』を始めとする多くの詩集を刊行したこと、及び春山の『詩と詩論』創刊の触媒となっただけでも、昭和初期出版史に特筆しなければならないと思われるからだ。

f:id:OdaMitsuo:20200308161354j:plain:h115(三人社復刻)雪明りの路 (日本図書センター復刻)

 百田は明治二十六年大阪市西区生まれ、高等小学校卒業後、個人教授でフランス語を学んだ他に学歴は有さない。その頃から、短歌や詩を書き始め、大正四年に短檠社から初めて百田宗治名で詩集『最初の一人』を刊行し、続けて個人小雑誌『表現』を創刊し、福士幸次郎や富田砕花が参加した。この短檠社とは友人の久世勇三や後の画家鍋井克之たちと出していた短歌雑誌『短檠』の発売所で、『表現』創刊も久世の後援があったとされる。

 久世は拙稿「天佑社と大鎧閣」(『古本探究』所収)や『近代出版史探索』172、『近代出版史探索Ⅱ』311などで取り上げているように、大鎧閣の創業者で、大正八年に『改造』と並ぶ総合雑誌『解放』を創刊し、上京していた百田はその編集者となる。その前年には『近代出版史探索Ⅱ』381の福田正夫たちによって『民衆』が創刊され、そこに口語自由詩「君達に送る―新しい民衆の精神」を寄稿し、『民衆』は廃刊したけれど、『表現』とともに民衆詩派運動の大きな寄与となったとされる。
古本探究  近代出版史探索 近代出版史探索2

 そして大正九年には新潮社から『百田宗治詩集』を刊行し、翌年にはやはり新潮社から、本連載1008などの詩話会編『日本詩人』が出され始め、その中心的な存在として活躍する。しかし百田にとって、この間は民衆派の口語自由詩の生硬さから離れ、内省的で穏健な詩風へと移行していたのだが、最も不作な時代と認識される。それに伴い、十年余にわたって同棲した前妻と別れ、詩話会も解散し、大正十五年には新たに妻を迎え、『椎の木』を創刊する。そして新人を育て、俳句の精神を重んじ、自らの詩集『何もない庭』『偶成詩集』、及び『鑑賞芭蕉句抄』などもあり、先述したように後者が厚生閣から再版されたとわかる。
f:id:OdaMitsuo:20200505111629j:plain:h120(『偶成詩集』)

 さて百田の詩というよりも、リトルマガジンと出版社との関係をたどってきたが、春山と同様に、百田が正規の学歴を有していないにもかかわらず、大正時代における地方の詩とリトルマガジンと出版の時代を生きてきたことが浮かび上がってくる。それに加えて、百田にとって僥倖だったのは大鎧閣を興した久世勇三との出会いであろう。おそらく大阪からの上京も彼と大鎧閣を抜きにして語れないだろうし、『解放』の最初の編集者に迎えられたのも同様のはずだ。

 おそらくそのような編集者としての関係を通じて、新潮社からの『百田宗治詩集』の刊行が実現し、さらにそれは詩話会編纂の『日本詩人』創刊へと結びつき、さらに『椎の木』創刊へと至ったと考えられる。こうした詩とリトルマガジンだけでなく、大正時代の総合出版社といえる大鎧閣、それに文芸書出版社として台頭しつつある新潮社を通じ、また自らも椎の木社を立ち上げることによって、百田は他の詩人とは比べものにならないほど「出版社に顔のひろい人」になったのであろう。また自らも正規の学歴を有していなかったことを自覚した苦労人だったことから、春山や伊藤たちの仕事の世話もしたことになろう。きっとそれは春山や伊藤たちだけでなく、他の詩人たちにも及んでいたのではないだろうか。

 その百田も忘れられた詩人と考えられるので、この時代の短詩「夕雲」(『冬花帖』所収、厚生閣、昭和三年)を引き、この一文を終えることにしよう。

  お伽噺に捨てられた王女のやうに、
  この井戸傍に花さかせ!
  黄金の馬車が、
  あの夕陽から下り立つ日を夢みながら・・・


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