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古本夜話1032 北川冬彦『現代訳 神曲地獄篇』

 続けて詩人の北川冬彦の一冊にも言及しておきたい。ただそれは戦後の翻訳であり、昭和二十八年に創元社から刊行されたダンテの『現代訳 神曲地獄篇』である。
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 この一文を書くために、あらためて中央公論社版『日本の詩歌』25所収の北川の『三半規管喪失』(至上芸術者社、大正十四年)、『検温機と花』(ミスマル社、同前)、『戦争』(厚生閣、昭和三年)などのアンソロジーを読んだ。すると、とりわけ処女詩集『三半規管喪失』にはシュルレアリスムというよりも、関東大震災の衝撃に伴うダンテの『神曲』のイメージが重なり合っているように思われた。例えば、「街裏」と題する四行詩「両側の家がもくもく動きよつて/街をおし潰してしまつた/白つちやけた屋根の上で/太陽がげらげら笑ひこけている」にも、それは顕著であろう。
f:id:OdaMitsuo:20200512160549j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20200514101956j:plain:h120(『検温器と花』)

 それゆえに北川の『現代訳 神曲地獄篇』は戦後になって唐突に試みられたのではなく、長い前史と敗戦が相乗し、翻訳刊行されたと見なしていい。それに加えて、この「現代訳」は拙稿「北上二郎訳『悪の華』」(『古本屋散策』所収)などでふれた口語訳を想起させ、北上訳がそうであるように、北側の「現代訳」もまた他の訳と異なるインパクトをもたらしてくれるからだ。
古本屋散策

 北川もその「訳者序」で、「現代詩人としての責任」を負うつもりで、「ダンテの『神曲』は是非ともわれわれの現代語で翻訳して読みいゝものにしなければならない」と記し、ダンテのコアに言及している。「それは何か。ギリシア神話やウェルギリウスの詩などによって養われたダンテの詩的映像である。ダンテの『神曲』ことに地獄篇を不朽なものにしているのは、この詩的映像の造型性と感覚の新鮮さにあるのだ。それに、理想精神と現実の醜悪・悲惨の剔抉の苛烈にあるのだ」と。

 かくして一九〇二年のフィレンツェ版極大豪華本から引かれた「憂いの河のアゲロンテの河岸に集まってきている亡霊たち」の挿絵とともに、「第一景」が「荒々しい暗い空の下に、異様な門が立っている。地獄の一(いち)のもんだ」と始まり、その門に記された「われを過ぎれば幽囚の市あり」という著名な言葉へ続いていくのだが、そこはやり過ごし、北川の「現代訳」へと進んでみる。それは次のような言葉として立ち上がってくる。

 行くことしばらくして、
 星のない空に
 嘆き、呻き、叫びの声々が響きわたった。
 得体の知れない国語やおそろしい方言、苦悩の言葉の憤怒の調子、強い声、それに打つ手の音までまじって、それらは、
 永遠にくろずんだ空をめぐり、どよめいている。まるで旋風に巻きあがる砂塵のようだ。
 この声々は何だろう? この苦悩にうちのめされた人々は誰なのだろう?
 この惨めな状態に置かれているのは、何も名誉も、また非難も受けることなく世をおくった人人の悲しい亡霊なのだ。(後略)

 さらに引用を続けたいけれど、とめどがなくなってしまうので、残念ながらここで止める。だがこれだけでも、先行する翻訳と異なる北川の「現代訳」のニュアンスの一端はおわかり頂けるであろう。できれば、どこかで復刻、もしくは文庫化され、広く読まれるようになれば、最も幸いなのだが、現在の出版状況を考えると、それも難しいだろう。

 といって戦後における『現代訳 神曲地獄篇』の出版が容易だったわけではないとも推察される。北川と創元社(東京)の関係は戦後二十八年の『現代詩人全集』全16巻の刊行とリンクしているはずで、それが同年の「現代訳」を実現させたのだろう。しかし二十九年に創元社(東京)は倒産し、東京創元社として再建されるのだが、『現代詩人全集』にしても、『現代訳 神曲地獄篇』にしても、そうした版元の危機と再建の渦中において、無縁だったわけではない。前者はともかく、後者はその過程で、スポイルされてしまったように思われてならない。

 きっと北川はその渦中にあって、自らが「解説」に付した次のような一文を実感として受けとめたのではないだろうか。

 『神曲』三部作のなかで、誰もが観るように「地獄篇」は一等リアリスティックである。こゝには、ダンテ時代の腐敗・堕落した世相がまざまざと現わされているが、これはわれわれの現代のそれに酷似している。邪淫、欺瞞、不誠実、暴虐、反逆、これらの罪悪はわれわれの現実世界に瀰漫している。これらの諸罪悪は黙認されて横行している。ダンテは、これらの諸罪悪を神の正義によつて訴追し、審判している。それは、いさゝかの仮借もない苛烈きわまるものである。ダンテの地獄篇を読むとき、われわれも、現代の邪悪な諸々の罪悪に対して義憤の想いに駆られ、それらを訴追・審判して〈正義の回復〉を夢見ずにはいられないだろう。ダンテは〈神の正義〉によつてそれをおこなつたが、しかし神を認めない者は何によつてそれをおこなつたらよいのか。われわれは、一瞬、この〈神の正義〉を〈人間の正義〉に置きかえることは出来る。が、しかし、人間が人間を新版することは僭越である、とう何者かの囁きが耳元に聞えるのをどうしたらよいのか。
 何にしても地獄に陥されていく人物が現代社会に充満していることはたしかなことだ。

 これは『聖書』を文学、『神曲』を叙事詩として読んだ北川の述懐だが、そのアポリアと現実は二一世紀を迎えてもまったく変わっていないといえよう。


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