出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1038 田部重治『峠と高原』、黒百合社、山上雷鳥『アルプス伝説集』

 前回、『小泉八雲全集』刊行会代表兼訳者の英文学者田部隆次に、初めてふれたけれど、私が以前から知っていたのはその弟で、やはり英文学者の田部重治のほうだった。それは隆次と異なり、重治は『日本近代文学大事典』に立項があるように「山に親しみ全国各地の山と谿を一生の友とした」での、研究書や翻訳だけでなく、山岳書も多いことによっている。浜松の時代舎でそれらの一冊を購入してきたばかりだ。

  『近代出版史探索Ⅱ』225や251で既述しておいたように、明治三十八年の小島烏水たちの山岳会の創立と併走して、山岳書、登山書、紀行書の出版が盛んになり、大正、昭和を通じて、出版物の確固たる一分野を占めるに至ったのである。しかし私にしても、それらの山岳書を意識して集めてきたわけではない。ただ目についたら気紛れに買い求めてきたに過ぎず、それらの出版に通じていない。けれど、その裾野はかなり広がっていたように思われる。
近代出版史探索Ⅱ

 実は時代舎で購入したのは二冊で、一冊は田部重治『峠と高原』である。これは 『近代出版史探索Ⅱ』433の大村書店から出され、昭和六年四版となっている。大村書店は広島で質屋を営む素封家出身の大村郡次郎によって、大正末に創業され、哲学書や翻訳書、日本で初めての 『ゲーテ全集』を手がけていたとされる。『峠と高原』の奥付裏には角田吉夫『上越国境』、木暮理太郎『東京から見える山』、田部重治『スキーの山旅』の三冊が並び、昭和に入って、大村書店がこの分野にも進出していたことを示している。
f:id:OdaMitsuo:20200601112015j:plain:h120(『峠と高原』)f:id:OdaMitsuo:20200601114809j:plain:h120(『上越国境』)f:id:OdaMitsuo:20200601115226j:plain:h110(『スキーの山旅』)

 『峠と高原』は「自序」によれば、『山と渓谷』(第一書房)に続く、峠や高原を中心とする紀行、山に関する随筆を集めたもので、十二枚の「何れも親しき山友の手になれる」峠や高原や山の写真が掲載され、そのうちの二枚は「木暮理太郎写」とあるので、『東京から見える山』の著者が田部の「山友」だとわかる。
f:id:OdaMitsuo:20200601135215j:plain:h118(『山と渓谷》)

 奥付の発行者は東京市小石川区武島町の大村郡次郎の名前が記されているので、円本時代をくぐり抜け、サバイバルしてきたことを伝えている。このように大村書店と『峠と高原』の関係は、『ゲーテ全集』などの翻訳書などを通じて、英文学者にして山岳家の田部重治へとリンクしていったと類推できる。

 だがもう一冊の山上雷鳥『アルプス伝説集』の手がかりは、出版社にしても著者にしても、ほとんどつかめない。昭和七年に大阪市南区鰻谷仲之町の黒百合社から、刊行者を中江喬三として出版されているけれど、いずれも初めて目にする版元であり、出版者である。
f:id:OdaMitsuo:20200601141008j:plain:h105(『アルプス伝説集』)

 それでいて、『アルプス伝説集』は四六変型判のとてもシックな一冊なのだ。シンプルな機械函からは想像できないけれど、本体の表裏はアルプス地方の若い男女と登山道具らしき深紅のカット群に彩られ、背は青墨色のクロス装丁である。そしてフランス装アンカットの本文は十六行で組まれ、見開き両ページの端に広く余白を取るというもので、造本にしても本文組にしても、書籍製作に一家言ある編集者が介在していると考えるしかない仕上がりとなっている。まさに奥付を見なければ、大阪の出版社の一冊とは思わないだろう。

 山上の「序」には次のように記されている。

 この書に蒐集した伝説は、多くヨーロツパ・アルプスを中心とする山村僻陬に、今なほ語り伝へられてゐるものである。山と人生の関連において、それらの物語が如何なる役割を演じ、また演じつゝあるかは、読者の推察に委すとして、山が――アルプスが――いはゆる物質文化に傷つけられる事を悲しむ山人にとつて、プリミテイヴ・ライフへの帰趨と思慕の心情に対し、幾分でも山の芳香を齎らし得るとすれば幸である。

 こうした語り口のニュアンスの中に、本連載991などの伝説の時代の木霊を聞き取れるように思う。同書には「北方の龍」を始めとする六編が収録されているのだが、これらは主としてHenderson and Calvert. WONDER TALES OF OLD TYROLから編著し、翻訳したものとの断わりが見える。それに加え、氷河とドラゴン伝説にまつわる「北方の龍」は、これも本連載986、987のアンドリュー・ラングの英訳から選んだとの付記がある。

 このような一冊だけでは黒百合社の出版実体はうかがえないけれど、奥付裏には「同社刊行山岳図書」として、次の著者と書名が挙がっている。藤木九三『屋上登攀者』『詩集雲表』、三木高岺『山岳征服』、パウル・バウアー、伊藤愿訳『ヒマラヤに挑戦して』、水野祥太郎『山野スキー術教本』、『スイス氷河写真』『立山山頂の周観写真』。これらの著者のうちの藤木は『日本近代文学大事典』に立項されて、小島烏水の紀行文によって山に魅せられ、大正四年に東京朝日に入社し、登山専門記者として活躍し、昭和九年には京大の白頭山遠征にも参加とあり、著書として先述の『屋上登攀者』が挙がっていた。
f:id:OdaMitsuo:20200601143707j:plain:h115(『 山岳征服』)f:id:OdaMitsuo:20200601144003j:plain:h115(『屋上登攀者』)

 したがって、これらの事実から考えると、山上の『アルプス伝説集』は、やはり「伝説」というよりも、山岳図書として出版されたと見なすべきだろう。同書の卓越した装丁と造本に言及しておいたけれど、残念なことに印刷所の記載はない。黒百合社の他の本も見てみたいと思うが、めぐり会えるだろうか。


odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら