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古本夜話1048 柳亮『あの巴里この巴里』

 前回、柳亮が ALBUM SURRÉALISTE の訳者の一人で、『追想大下正男』の「『みづゑ』編集の時代」の執筆者だったことにふれてきた。
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 どのような経緯があってなのかは不明だが、柳は『日本近代文学大事典』に立項が見える。それによれば、明治三十六年名古屋生まれの美術評論家で、大正十年日本美術学校卒業後、十三年に渡仏し、ルーヴル美術館付属研究所のジャモー教室で西洋絵画史を学び、昭和六年に帰国し、美術評論に従事し、十三年から十八年にかけて日本大学芸術科美術部長とある。

 ただ私の場合、柳が日本のシュルレアリスムの関係者だとは知らなかったけれど、昭和四十年代後半に彼の著書『黄金分割』(美術出版社)を読んでいた。それから二十年ほど前に同じく柳の『あの巴里この巴里』(沙羅書房、昭和二十四年)を古本屋の均一台から拾っている。四六判上製だが、カバーのない裸本で、用紙も時代を反映してザラ紙に類するもので、巻末には「ノート」が付され、「本書は昭和十一年に初版刊行後、戦争その他のため絶版となつていたものであるが、こんど沙羅書房の中山君の計らいで重版の運びとなり再び世に出ることになつたのは衷心欣びに耐へない」と記されている。さらこれを補足すると、沙羅書房の発行者は初谷一郎なので、「中山君」とは柳の近傍にいた編集者だと考えられる。ただ柳は「装幀、口絵とも、初版の時のような贅澤は許されない」とも述べているので、初版にかなり愛着があったことがしのばれる。

黄金分割 f:id:OdaMitsuo:20200630000714p:plain:h115( 『あの巴里この巴里』)

 また「ここに収めた短篇や随筆は、昭和九年以降の『改造』『日本評論』『セルパン』等へ随時発表したものですべて筆者の滞欧中に見分した一種の生活記録」であり、それらを通じて「巴里の芸術家達の生活や雰囲気」を伝えることができればとも記している。こうした「ノート」の言葉と藤田嗣治による「著者のポルトレエ」の口絵から、よくある滞仏見聞録かと思い、読み出してみたのだが、予測と異なり、戦前のパリを描いた優れた小説のようで、その達者な筆致に堪能させられてしまった。

 例えば、藤田と元愛人のバレエのことから始まる「ふあむ・もんぱるの」に、次のような一節が見える。「パリでは、冬の前ぶれは雨であつた。幾日も幾日も、霧の様な小糠雨が、乳色の空を濡らして降り続いた。そして、その雨の後には灰色の冬が、憂鬱な大陸の様に無限に続くのであつた」。それからこの後に対照的なキャフェのガラス張りのテラスのにぎわいと大きなストーブを囲む人々が描かれ、映画のシーンのような光景を喚起させてくれる。それはこの一編だけでなく、モンパルナスやモンマルトルを背景とする他の作品も同様で、「随筆」というよりも、柳自身がいっているように、「短篇」と呼ぶほうがふさわしいように思われる。

 冒頭の「クウポールの酒場」にしても、その夜の酒場には画家たちだけでなく、アンドレ・ブルトン、亡命詩人のエレンブルグ、写真家のマン・レイが姿を見せ、パリの一九二〇年代のひとつのトポスを浮かび上がらせている。そうした意味では、アベル・ガンスを始めとするパリの映画人たちが登場する「しねあすと・ぱりじやん」が興味深いのだが、ここではやはり美術絡みの「ラモン事件」を取り上げるべきだろう。それに「殊にパリは、一九二六年から三〇年にかけて、インフレの波に乗つて絢爛な黄金時代を、その美術界のためにも華々しい時代である」からだ。

 ラモンはルーブル美術館の会計官で、時の美術大臣フランソワ・ポンセに気に入られ、その秘書官も兼ねていた。彼は教養と品格を備えた四十前の青年紳士だったし、ルノアールを愛し、彼自身のコレクションにしても、相当な数やレベルに達していた。それもあってラモンは画商になりたいと夢想していたが、その背中を押したのはマダム・ラポーズだった。彼女は美術雑誌『ルネッサンス』を発行し、大画廊「ギャルリー・ド・ラ・ルネッサンス」を有し、美術商を営んでいた。一九二九年秋にその画廊で、パリの諸流派の代表作品を一堂に会した巴里派画家展覧会、つまり最初で最後の「エコール・ド・パリ」の総合展覧会が催されたのである。

 それはマダム・ラポーズが発案し、ラモンが手がけた事業に他ならず、その反響は予想以上に大きく、彼は官界を退き、画商として立つことを決心させた。ラモンは「エコール・ド・パリ」の展覧会をアメリカでも開催し、画商としてデビューする計画で、それが発表されると、センセーションを巻き起こした。それにはラモンとマダム・ラポーズとの密接な関係も含まれていた。ラモンがニューヨークに送ったのはマチス、ピカソ、ドランたちの作品で、千点以上、金に見積れば数億フランとの噂も立つ中で、ラモンはアメリカ行き大汽船にあって、「ラモン画廊」の出現を夢見ていた。

 ところが一九三〇年三月のある朝、パリの新聞は「ルーブル美術館の会計官ラモン氏、紐育に於て逮捕さる」とう驚くべきニュースを報道した。それによれば、ラモンはルーブル美術館を休職中で、「エコール・ド・パリ」展覧会開催のためにニューヨーク滞在中だが、同美術館の会計検査の結果、使途不明金二百万フランが判明し、ラモンが横領容疑者ゆえに逮捕されたのである。

 担当検事はラモンを護送し、パリへ帰ってきたが、ラモンは強硬に犯罪を否認し続け、自白を肯んじなかった。そうするうちに奇怪な新事実が発覚した。それはロアール銀行の取りつけ騒ぎに続いて、一流画商の「エミイル」が突然店を閉め、それをきっかけにして大小の画商が次々と倒産し、画商街に突発的恐慌が起きた。それはラモン事件とつながっていたと後に判明する。彼がアメリカで関税をパスしようとして、ルーブル美術館長の肩書を偽証し、そのためにラモンの身元照会電報が出されたこと、また彼の逮捕により、ニューヨークの税関が作品を差し押え、保税倉庫費のために一部を競売したという噂が流れ、それがパリに誇大に伝わり、画商街の一大恐慌を巻き起こす原因となったのである。先の「ふあむ・もんぱるの」では百五十軒以上あったとされるパリの新画商の半数が倒産したという。

 美術批評家にいわせれば、ニューヨーク展覧会の首謀者はマダム・ラポーズだったかもしれないが、「黄金時代の絶頂にあると考へられてゐた画商街に、ハツキリ言へば金がなかつた」ことに尽きるのだ。彼はラモン減刑運動委員長となり、嘆願書を持参していた。それを受け取った「私」はそこに書かれたサインをみて、驚きの叫びをもらすところだった。それは「パブロ・ピカソ、アンリ・マチス、アンドレ・ドラン―」と続いていたのである。

 なお後に、初版は『巴里すうぶにいる』のタイトルで、昭和一一年に昭森社より刊行されていたことを知った。
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