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古本夜話1057 「泰西名著文庫」と高橋五郎訳『プルターク英雄伝』

 もう一編、前回の佐藤紅緑『愛の順礼』に関連して続けてみたい。それはこれも前回既述しておいたように、予約出版の円本の範となった国民文庫刊行会と鶴田久作が結びついているからでもある。

 『愛の順礼』の主人公浦田六郎は父の再婚の失敗による実家の没落とその死、一族の内紛などを背景として、上京し、苦学する決意を固め、大正二年に日本橋に降り立った。彼は貧しき学生を救おうとする躬行社を訪ね、そこで「猛烈」と仇名される南條と知り合い、車夫となり、明治大学に入った。すでに「東京の下町はもう電車だらけだ、車に乗る人は山の手の人ばかり」で、「坂を恐がつちや車屋が出来やしない」時代を迎えていた。そうした三年の苦学生活の中で、南條と兄弟の如く親密になり、六郎が明治大学の卒業証書を得ると、南條はそれを祝福していう。

 「可(よ)しッ、牛肉を奢つてやる。」
 南條は私を牛肉屋へ伴れ出した、私は南條が其れだけの銭を持つて居たことを不思議に思つた。が翌日私は南條が平素愛読して居たプルターク英雄伝が彼の本棚の中に無くなつたことに気が付いた。

 これは大正三年から四年にかけて出された国民文庫刊行会「泰西名著文庫」版の高橋五郎訳『プルターク英雄伝』菊判全四巻だと思われる。現在ではもはや信じられないかもしれないが、このような新刊に近い古典の翻訳書の古本屋への売却は「牛肉を奢つてやる」ほどの金をもたらしたのである。現在の言葉に代えれば、「牛肉屋」は高級ステーキ店としたほうがふさわしいかもしれないが。
 (泰西名著文庫)

 この「泰西名著文庫」版ではないが、同じく国民文庫刊行会「世界名作大観」版の『プルターク英雄伝』を所持している。こちらは四六判で昭和五年の刊行である。巻頭のアレキサンデル大王とクレオパトラの口絵写真に続くギリシャとその周辺の折込地図は、南條が壁にかけていた、点々たる朱線が蒙古チベットまで及ぶ支那の地図を想起させる。また高橋五郎訳、幸田露伴校並評との明記は、露伴が「概言」と「鼇頭評」を担っているからだが、そこは露伴のことゆえ、『プルターク英雄伝』が「千余年前の古より、盡未来際に亙りて、人類の有する一大光彩たるべきもの」で、「高橋五郎先生これを邦訳して恵を吾が士女に貽る。訳文亦一家の風格あり」との本伝と翻訳に対するオマージュを捧げている。そしてその第一巻第一章ともいうべき「アレキサンデル大王伝」が次のように始まっていく。
 (『プルターク英雄伝』、世界名作大観版)

 今アレキサンデル大王とファサリア戦勝者シーザルの伝とを敍べようとするに当り、予め大方の寛恕を乞はねばならぬのは、飽くまでも雄大な其功業や、極めて豊富な其材料を挙げて、一々に其迹を詳記するの煩を避け、寧ろ要を摘んで梗概を語るに止めようと思ふことである。余の目的は歴史を書くよりも、伝記を綴るにあるので、勢ひ爾せざるを得ないのである。

 この高橋五郎の名前は国民文庫刊行会の前身の玄黄社の主たる翻訳者として覚えていたし、それらは『セネカ論説集』『ベーコン論説集』『エピクテタス遺訓』、エマーソン『処世論』、ラロシフコー『寸鉄』、アウレリアス皇帝の『瞑想録』などが挙げられる。それに加えて、高橋は『日本近代文学大事典』に半ページに及ぶ立項があり、翻訳家としてはかなり長いので、それを抽出し、たどってみる。
(『ベーコン論説集』)

 彼は安政三年、越後国柏崎の代々庄屋に生れ、明治初年に出郷し、漢学、国学、仏書を学んだ後、洋学修行を志して上京する。それから緒方塾に入り、植村正久を知り、その紹介で宣教師ブラウンの学僕となり、英仏独語を修得した。十三年に『神道新論』『仏道新論』を刊行し、『六合雑誌』や『国民之友』が創刊されると、それらの寄稿者として活躍し、評論家としての名前を上げた。その一方で、明治二十年から『漢英対照いろは辞典』全四冊を刊行し、当時の辞書界に新風を吹きこんだとされる。

 しかし明治二十六年に内村鑑三不敬事件に端を発し、井上哲次郎が『教育と宗教との衝突』を発表し、国家主義の立場からキリスト教を排撃したので、後に『排偽哲学論』(民友社、明治二十六年)にまとめられる反論を『国民之友』に発表する。それを機として『国民之友』と関係を断ち、時評家を廃業し、国民英学会の教師を長きにわたって務め、そのかたわらで翻訳に力を入れるようになる。

 実は鶴田も国民英学会で学んでいて、博文館を経て、明治三十八年に玄黄社を創業していることからすれば、国民英学会を通じて、高橋と鶴田は結びつき、玄黄社が設立され、高橋の翻訳と併走するように出版活動が展開されていったと考えられる。そうした二人のコラボレーションによって、『プルターク英雄伝』も含まれる「泰西名著文庫」や「世界名作大観」への企画出版へと進んでいったのであろう。

 高橋は昭和十年に鬼籍に入っている。ただ晩年になって高橋は、心霊学の研究にふけったとされているが、すでに玄黄社時代にもデゼルチス『心霊学講話』を翻訳刊行しているので、心霊学への関心は早くから生じ、それが晩年になってさらに昂じたというべきであろう。


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