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古本夜話1066 野崎左文『私の見た明治文壇』

 三回続けて、斎藤昌三、高木文、蛯原八郎の明治文学書誌学の礎石をたどってきたが、それらの原型、もしくは最も影響を与えた資料として、昭和二年に春陽堂から刊行された野崎左文の『私の見た明治文壇』が挙げられるであろう。残念ながら春陽堂版は未見であるけれど。
f:id:OdaMitsuo:20200820105200j:plain:h110(『私の見た明治文壇』、春陽堂版)

 そのことを示すように、『私の見た明治文壇』は「明治初期の新聞小説」などが、『明治文学回顧録集(一)』(『明治文学全集』98、筑摩書房)、『近代文学回想集』(『日本近代文学大系』60、角川書店)に収録されている。また十川信介編『明治文学回想集』(岩波文庫、平成十年)には「明治初期の新聞小説」の『早稲田文学』大正十四年三月号初出が収められ、続いて『増補私の見た明治文壇』(平凡社東洋文庫、同二十一年)も刊行され、平成を迎えても、明治初期文壇資料としての価値を伝えていよう。

>『明治文学全集』98 f:id:OdaMitsuo:20200820110740j:plain:h110 >『明治文学回想集明治文学全集』 増補私の見た明治文壇

 野崎に関しては『日本近代文学大事典』の立項を抽出してみる。新聞記者、狂歌師で、安政五年高知県に生れ、明治二年藩費生として上京し、大学南校などに学ぶ。六年鉄道寮の外国技師付き雇員、七年工部省技手となったが、九年に仮名垣魯文の門下となり、蟹垣左文と名づけられた。十三年に魯文の『仮名読新聞』に関係して以降、明治日報、いろは、絵入朝野、東京絵入、今日、浪華、東雲、関西日報、国会、万朝報などの各新聞社を転々とする。

 本探索1063で仮名垣魯文の名前を挙げておいたが、斎藤昌三の『現代日本文学大年表』を確認してみると、これらの新聞が明治十五年頃から、小説=「続き物」の掲載紙として出揃い始めている。このような新聞と小説の関係を熟知していた左文によって、「明治初期の新聞小説」を始めとする『私の見た明治文壇』が書かれたのである。「明治初期の新聞小説」の第一章「大新聞と小新聞」は次のように書き出されていた。
f:id:OdaMitsuo:20200813175200j:plain:h110(『現代日本文学大年表』)

 新聞小説の事を書くのに先だつて、日本の新聞が大小の名称を以つて区別された事を云つて置く必要がある。明治六七年から十年までの間に東京に於て発行されて居た新聞紙は東京日々新聞、郵便報知新聞、日新真事誌(明治八年廃刊)曙新聞(新聞雑誌改題)朝野新聞(公文通誌改題)読売新聞、平仮名絵入新聞(後東京絵入と改題)仮名読新聞花の都女新聞等であつた。此内報知新聞が両国薬研堀にあつたのを除く外は、言ひあわせたやうに銀座の煉瓦地に集まつて居た。

 そのために以前は活人形、猿芝居などが多く見世物町と呼ばれていたのが、「世人は銀座を新聞町と称へるに至つた」。そこで野崎は明治十四年に滑稽雑誌『於見喃誌(おみなんし)』(粋文社)を発行し、千輯屋文作の名前で「此の銀座の新聞雑誌を戯れに引手茶屋に擬し、その記者を娼妓に見立てた新聞細見」を掲載したのである。これはそのまま一ページが採録されているので、「其の当時を偲ぶ」必要があれば、それを見てほしい。そこには「桜池は桜痴居士福地源一郎」から始まる「源氏(げんじ)名に擬した名前主(なまへぬし)」も列挙されているからだ。

 またこれらの新聞が国家の政治を主とする「大(おほ)新聞」、世上の出来事、花街劇場通信に重きを置く「小(こ)新聞」にわかれていることを相異「対照表」で教示してくれる。そして紙幅の大小も含め、「大新聞」は中流以上の知識階級、「小新聞」は中流以下の社会を相手にする通信本位のものとされた。それに伴い、記者にも相違が生じ、前者は政治家、法律家、洋学者、官吏から転じた者、書生上がりで、筆も口も達者揃いだが、後者は戯作者、狂言作者、俳人歌人といった軟文学者が多く、筆一本で浮世の荒浪を渡ってきた苦労人の集まりでもあった。このような新聞や記者の相異は近代出版業界の形成においても大きく作用していたと思われる。

 それから「明治初期の新聞小説」は「新聞小説の嚆矢」「新聞小説の作法」「小説記者の生活状態」「新聞小説家の流派」「投書家の勢援」「小新聞の経営」「新聞挿画の沿革」「其他の思ひ出」と続き、野崎ならではの「新聞小説」と「明治文壇」の相関が描かれている。これらのエキスが伊藤整の『日本文壇史』に溶けこまされていることはいうまでもないが、それだけでなく、明治文学研究にしても、あるいは山田風太郎の明治開化物にしても、この『私の見た明治文壇』を抜きにして語れないであろう。

日本文壇史

 それらに加えて、近代出版史においても見逃せない証言もなされている。それは直接引用しておいたほうがいいだろう。

 明治十二三年頃より一旦新聞に出た小説を再び単行本として売出す事が流行し、盛んに之を発行した書肆は辻文、辻亀、鶴声堂、滑稽堂及び春陽堂の前主人が桜田本郷町に開店した頃であつた。それは小説が完結すると其の筆者は一旦用ひた挿絵の古版木を社から貰いひ受け、その木版と共に新聞切抜きの原稿を売るのであつて、書肆は之へ色摺の表紙、見通しの口絵を加へ、序文だけを木版に彫らせ、本文は活字にして之へ処々古版木の画を挿み、二冊以上のものは袋入にして売出すといふ順序であつた。此の体裁の小説本は四五年間は継続し之を明治式合巻と称へる人もあるやうだが、是れが後には石版画ボール表紙の西洋綴となり、三変四変して博文堂や春陽堂から出版する菊判やまと綴の小説本となつたのである。

 ここに掌を指すように、明治十年代からの新聞小説と著者と出版社の関係、その単行本かと造本のメカニズムと変容が語られ、春陽堂などの造本の謎が明かされていることになる。

 野崎は「野崎左文翁自伝」(柳田泉『随筆明治文学3』 所収、東洋文庫)によれば、明治二十八年に記者生活を打ち止めとし、日本鉄道会社の書記となり、その後鉄道院副参事として九年間勤め、大正三年に辞し、帰京して天笠浪人となっている。柳田は明治文化研究会の例会で、左文翁を知ったと述べていて、吉野作造を会長とする研究会の発足は大正十三年だから、左文も早い時期からの会員だったと考えられる。そして関東大震災後に盛んになり始めた明治文化研究に刺激を受け、自らも「明治初期の新聞小説」を発表し始める。そこには高木文の『明治全小説戯曲大観』への言及も見られ、研究会の人々の発表に寄り添うかたちで、『私の見た明治文壇』も書かれていったと推測できるのである。

随筆明治文学3 明治全小説戯曲大観(東出版復刻)


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