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古本夜話1067 仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』、辻文、金松堂

 東洋文庫の野崎左文『増補私の見た明治文壇』二分冊には、仮名垣魯文の追善集『仮名反古』(明治三十年)も収録され、そこには「西洋道中膝栗毛の末に一言す」「明治年間に於ける著述家の面影」「『高橋阿伝夜刃譚』と魯文翁」などの魯文追悼録、及びそれに関連する「草双紙と明治初期の新聞小説」「芳川春濤翁の伝」も見えている。
増補私の見た明治文壇

 ここでは『近代出版史探索Ⅲ』473で、邦枝完二『お伝地獄』を取り上げ、魯文の草双紙名も挙げていることもあり、「『高橋阿伝夜刃譚』と魯文翁」にふれてみたい。「毒婦」お伝の物語は先の拙稿でたどっておいたが、明治十二年一月に死刑と決した。それについて、野崎は述べている。

近代出版史探索Ⅲ 高橋阿伝夜刃譚 高橋阿伝夜刃譚(『高橋阿伝夜刃譚』国文学研究資料館、リプリント版)

 其の罪状を各新聞は競つて書立てお伝の写真や一枚摺りの錦絵なども売出され、市中到る処寄ると障るとこの毒婦の評判で持切り、処刑の当日などはお伝を観んとの好奇心で、押出した見物も頗る多かつたのである、そこで此機を外さずお伝の伝記を草双紙にして、売出さうと考へたのが、両国横山町の辻文で、魯文翁にその執筆を依頼し、同年二月即ちお伝が斬罪に処せられた後一ケ月足らずに、この『夜刃譚』の初版を発行したのである(後略)。

 明治開花期における毒婦お伝ブームは新聞、写真、錦絵、草双紙といったメディアミクス化を伴い、『夜刃譚』だけでなく、その他の草双紙も競合企画出版されていった。それを斎藤昌三の『現代日本文学大年表』で確認してみると、明治十二年二月に続けて、仮名垣魯文『高橋於(ママ)伝夜叉譚』(金松堂)、岡本勘造『其名も高橋毒婦のお伝東京奇聞』(島鮮堂)、五月には篠田仙果『正本綴合阿伝仮名書』(山松堂)が挙がっている。この『現代日本文学大年表』の『夜叉譚』表記は斎藤の間違いではなく、初編だけがそのようになっていたことに基づくとされる。
f:id:OdaMitsuo:20200813175200j:plain:h110(『現代日本文学大年表』)

 先の野崎稿は大正十五年に出された『高橋阿伝夜刃譚』(『明治文学名著全集』5所収、東京堂)に掲載したものだが、その版元は辻文、『現代日本文学大年表』では金松堂とある。この東京堂の全集は未見のままで、入手に至っていない。手元にある『夜刃譚』を収録した『明治開花期文学集(二)』(『明治文学全集』2、筑摩書房)においても、版元は辻文ではなく、金松堂となっている。辻文は江戸地本双紙問屋の辻岡屋文助の系譜を引き、明治を迎えても草双紙の出版を続けていたと思われるが、この時期に版元名を金松堂へと変えていたようで、魯文の「序」にも、野崎がいうところの辻文ではなく、「旧知の金松堂主人」と記されている。

f:id:OdaMitsuo:20200822103046p:plain:h110(『明治文学名著全集』5)『明治文学全集』2

 辻文=金松堂であることを裏付けているのは、前田愛の『近代読者の成立』(有精堂)の口絵写真に示され「金松堂出版目録」で、そこには「書物地本錦絵問屋」として、日本橋区横山町の「金松堂辻岡屋文助」が明記されている。またあらためて同書の「明治初期戯作出版の動向―近世出版機構の解体―」を読むと、『夜刃譚』などの生産が木版印刷により、流通販売が書物問屋や地本問屋、絵草紙屋や貸本屋に基づいていたことを再認識させる。つまり私のいう近代出版流通システムによっていたのであり、それでも『夜刃譚』は野崎によれば、四、五千部を売り尽くしたようだし、前田は『夜刃譚』の巻末に売捌店(取次・書店)の東日本リストが掲載されていることを指摘している。明治二十年代を迎えて、出版社・取次・書店からなる近代出版流通システムの誕生と成長のチャートは、拙著『出版社と書店はいかにして消えていくか』『書店の近代』などを参照されたい。

f:id:OdaMitsuo:20200822114657j:plain:h110(筑摩書房版)出版社と書店はいかにして消えていくか 書店の近代

 さてこれらをふまえて、『明治開花期文学集(二)』の『高橋阿伝夜刃譚』を繰ってみると、初編上の表紙は錦絵を思わせ、八編二十四冊が刊行され、そこには多くの挿絵が配置されているとわかる。こうした所謂合巻の読み方は挿絵にまず目を通し、物語や事件の内容、登場人物のキャラクターとその位置づけなどを推測した上で、本文を読み出し、その予想を確かめていくというものだったようだ。

 そのことを伝えるように、『明治文学全集』版の『夜刃譚』もほとんどのページに挿絵が転載され、まさに当時の新聞タイトルではないけれど、「絵入」小説の趣を感じさせる。ただ本文はぎっしりとつまった総ルビの組み方だから、挿絵がなければ、草双紙の愛読者以外は読み続けることが困難であったかもしれない。

 そしてまたこのように本版技術に基づく生産が活版技術に移行し始めると、それによっていた版元が退場しているのは必然だったというべきであろう。それは作者にしても同様で、『明治開花期文学集』全二巻に最も多い五作が収録された魯文にしても、明治二十三年には名納め会を開いて引退し、二十七年に没していることは象徴的のように思われる。


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