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古本夜話1089 ちぬの浦浪六『深見笠』と春陽堂

 前回の「狂言百種」の他に、同じく春陽堂のちぬの浦浪六の『深見笠』があり、これも明治二十七年二月初版、九月第三版の一冊で、やはり菊判和綴じ、一六七ページの和本仕立てであった。ちぬの浦浪六とは村上浪六の初期のペンネームで、故郷の堺にちなんでつけたという。

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 浪六は慶応元年泉州に生まれ、幼くして父を失い、母の手で育ち、その才と素質から堺県令に引き取られ、養育され、ともに上京する。政官界の有力者の庇護の下に官吏となり、各地を転々と、投機に成功し豪遊したかと思えば、たちまち貧窮のどん底に陥るという生活を繰り返す。明治二十三年に再起を期して四度目の上京をし、郵便報知新聞に校正係として入社し、翌年森田思軒編集長の勧めで、『三日月』を発表し、二十四歳で文壇の寵児となった。

 前々回もふれたように、本探索1065の蛯原八郎『明治文学雑記』において、明治二十年頃からの近代ジャーナリズムの台頭により、新しい潮流に乗った作家に黒岩涙香、村井弦斎、村上浪六たちがいると指摘されていた。また黒岩比佐子も『「食道楽」の人 村井弦斎』で、原抱一庵、村井弦斎、遅塚麗水に続いて、浪六が『郵便報知』の四天王とされるに至ったと述べている。
f:id:OdaMitsuo:20201022151134j:plain:h115(ゆまに書房復刻)「食道楽」の人 村井弦斎

 私も『近代出版史探索Ⅱ』250で、大正や昭和に入ってからの「浪六叢書」や『浪六全集』に言及し、また浪六の息子に関しても、「村上信彦と『出版屋庄平』」(『古本探究』所収)などを書いているけれど、春陽堂との関係についてはふれてこなかった。ところが『深見笠』の「はしがき」には次のような一文が見える。

f:id:OdaMitsuo:20201022155804j:plain:h115(『浪六全集』)近代出版史探索Ⅱ 古本探究

 (前略)浪六が衣食の料なる新聞の紙面を貸り。深見重左と題して五十回。後の髯重と題して三十回。合して八十回八十日の間この男によりて飢潟を見ざりし恩義。荒れたる墓碑をも建て廃れたる供養をもすべき筈ながら。さては物見遊山の外に何として由緒なき抹香に煤ぼらむ今の世の中。むしろ一冊の書物に掻き集めて広く世人に見せむこそ。莫大の功徳なり無上の手向けと思ひしまゝ。これも髯ばかりは少々似たる春陽堂主人を語らひ。ここに纏めて雨は降らねど深見笠。のぞいて見らるゝほどの美男でなしといふ。

 ここで浪六と春陽堂の濃密な関係を垣間見たように思われ、あらためて浪六の出版史をたどってみた。浪六は明治二十四年に春陽堂から処女作『三日月』、翌年には『奴の小万』を上梓している。それから東京朝日新聞社へ入り、二十七年までに『破太鼓』『鬼奴』『深見重左』『髯の自休』『日本近代文学大事典』では『髯の自体』)『後の三日月』などを連載した。これらは『三日月』に始まる町奴が任侠を競うことをテーマとする作品で、町奴が両鬢を三味線の撥形に剃り込んでいることから、所謂「撥鬢小説」の名を生じさせたのである。

 先の「浪六近作小説」の『深見笠』は「深見重左と題して五十回、後の髯重と題して三十回」連載したとされているので、朝日新聞に明治二十六年から二十七年にかけての『深見重左』と『髯の自休』を収録合本化するはずだった。だが「紙数の都合」で果たせず、『髯の自休』として出版するので、「引続御購覧を乞ふ」と巻末に断わりがある。

 そこで前回の「狂言百種」奥付裏の十七ページ、今回の『深見笠』二十二ページに及ぶ春陽堂図書目録を見てみると、ちぬの浦浪六の名前で、『三日月』『奴の小万』『破太鼓』『鬼奴』『深見笠』『髯の自休』の他に、『浪六漫筆』『夜嵐』『たそや行燈』なども挙がっている。この事実を考えると、浪六のデビュー作から数年は春陽堂が単行本化と出版を一手に引き受けていたことを告げていよう。

f:id:OdaMitsuo:20201022160605j:plain:h115(『奴の小万』)

 それで思い出されるのは黒岩が『「食道楽」の人 村井弦斎』で、浪六が春陽堂に一流作家の三倍の原稿料を要求し、それを春陽堂が認めたことで、浪六が専属作家となったと書いていたことだ。黒岩の著書を読んだ時にはまだ『深見笠』を入手していなかったので、読み過ごしただけだが、その奥付を見てみると、そこには「版権所有」とあり、前回の黙阿弥の「狂言百種」と同様に、検印のところに春陽堂の印が打たれ、「此欄内に発行者・印章捺印・なき者は偽・版也」とあった。

 これは繰り返すけれど、原稿は買切で、印税は発生せず、版権は春陽堂にあるという事実を示している。つまり近代ジャーナリズムの台頭とともに新しい作家のひとりとなった浪六にしても、原稿は買切で、いくら版を重ねても印税が生じることはなかったのである。この時代の春陽堂の一流作家たちとは尾崎紅葉に代表される硯友社の同人であろうし、たとえ浪六の原稿が買切だったとしても、紅葉たちの三倍は出せなかったであろう。春陽堂の和田篤太郎と浪六の親しい関係はあっても、せいぜい同等であれば、御の字だったとも思われる。それが売れっ子作家にはなったけれど、その後の出版の問題を考えると、浪六について回ったシビアな出版条件であったのかもしれない。


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