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古本夜話1091 富岡永洗『八雲の契り』

 前回、明治二十年代に春陽堂が文学書版元としての隆盛を見た一因が、文芸誌『新小説』の創刊であることにふれた。ただ『新小説』第一期は明治二十二年に創刊され、翌年には休刊となっているので、第二期『新小説』の明治二十九年創刊のほうが近代文芸誌としてふさわしかったであろう。

 実は二十年ほど前に、浜松の時代舎から富岡永洸『八雲の契り』というA4判の画集をプレゼントされている。この一冊は帙入りで、折り叩み、見開きの春画十二枚が収録されているのだが、奥付などはなく、ただ伐折羅堂主人による「『八雲の契り』について」という「付録」兼「解説」が付されているだけだ。それによれば、『八雲の契り』と『夜桜』『葉桜』は「明治三大名作」として総称される名高いもので、次のように説明されている。
f:id:OdaMitsuo:20201113110142j:plain:h120 (『八雲の契り』)

 まず『八雲の契り』が、明治三十年頃、文芸出版で著名な春陽堂の年玉として、ひいき筋に配られたらしい(福田和彦氏は、明治三十年の雑誌「新小説」の創刊記念とされている)。そしてその好評に刺激を受けたライバルの博文館が、武内桂舟を起用してあいついで刊行したのが、「夜桜」「葉桜」ということらしい。寸法がほぼ同一の画帖形式であること、表紙の模様の類似から、同一の工房で、同じ職人によって製作されたもの(後略)。

 そしてさらに伐折羅堂主人は「秘密出版の非売品」の序文が山田美妙によるもので、その後も再摺の異板も出されていることを指摘し、本作は題と序文は欠けているが、明治三十二年の永洸による新訂版『八雲の契り』と見なしている。

 私はこの方面に関しては門外漢だし、それらの文献を渉猟し、確認することはできないけれど、明治二十年代から三十年代にかけての近代小説に口絵がつきものだったことは弁えている。例えば、前々回の浪六『深見笠』にしても、まさに桂舟による見開き口絵、前回の紅葉『金色夜叉』にしても、武内桂舟、河村清雄などの口絵が付されている。

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 たまたま『金色夜叉』後編の巻末広告は三十二ページに及び、その前半は「小説之部」として、それぞれの「著者目録」となっている。これは初見で、明治三十二年の春陽堂近代文学チャートとも見なせよう。それゆえに挙げてみる。紅葉、饗庭篁邨、村井弦斎、桜地居士、ちぬの浦浪六、塚原蓼洲、坪内逍遥、森鷗外、遅塚麗水、江見水蔭、三味道人、正直正太夫、眉山人、広津柳浪、漣山人、幸田露伴、山田美妙、川崎紫山、さらに諸家が続いている。

 まさに整然とした明治文学者の勢揃いといった感もあるし、その特色として、すべての「書名」の上に「画工」名が付されていることだ。「紅葉山人著作目録」を示せば、武内桂舟/『伽羅枕』、無名氏/『恋之病』富岡永洗/『冷熱』、渡辺省亭/『青葡萄』、鈴木華邨/『なにがし』、三島蕉窓/『笛吹川』、水野年方/『不言不語』、月岡芳年/『此ぬし』といった具合だ。これは多くが口絵だと思われる。ただ「画工」が同じこともあり、二十九冊のうちの八人の「画工」を挙げただけだが、明治文学と出版がこれらの「画工」とコラボレーションすることで成立していたことをあらためて教示してくれる。それが小説と挿絵の関係へと転化し、『近代出版史探索Ⅱ』385の平凡社『名作挿画集』の企画へと結びついていったのだろう。

近代出版史探索Ⅱ 

 そこで「画工」の一人である富岡永洸を『日本近代文学大事典』で引いてみると見出せる。

 富岡永洗 とみおか・えいせん 元治元・三?~明治三八・八・三(1864~1905)画家。信州松代藩士の家に生れる。通称秀太郎。明治一一年東京に出て参謀本部に出仕し、翌年勤務のかたわら小林永濯の門に入って絵を学んだ。二三年官を辞して画家として立ち、日本絵画協会その他に明治の風格を写した作品を発表し、また「風俗画報」「都新聞」などに挿絵の筆をとり、とくに「都新聞」には十余年にわたって黒岩涙香の小説挿絵を担当した。単行本の口絵には幸田露伴の『尾花集』、菊池幽芳の『己が罪』などもある。美人風俗画が得意であった。

 これに『新小説』が加わることはいうまでもあるまい。先の巻末広告には『新小説』も見出され、以上のような口上がしたためられている。「新小説は我文壇に於ける小説雑誌の泰斗なり。新小説が収むるものは各大家の傑作と新進英才の佳什なり。新小説の毎編挿入する木板、コロタイプ板、写真版等の絵画は当時有名の画伯が意匠と製板印刷の斬新なるを以て錦上花を添るの美観を呈す」と。

 そして「当時有名の画伯」たちが春陽堂の依頼に応じ、春画を試みたことも想像に難くないし、『八雲の契り』が明治三十年のお年玉とすれば、実際には『新小説』の第二期創刊は前年の七月だから、ちょうど春陽堂の『新小説』創刊とその好評を記念してのお年玉だったとも推測される。それに博文館が対抗して、桂舟による『夜桜』『葉桜』を刊行したのは、やはり二十八年創刊の『文芸倶楽部』に同じ「有名の画伯が意匠と製板印刷の斬新なるを以て錦上花を添るの美観」を呈そうとしたのかもしれない。

f:id:OdaMitsuo:20201114112129j:plain(『夜桜』)

 それにしても春陽堂と博文館の春画という「錦上花」の競合は、この時代ならではの隠れた出版エピソードとして記憶されてしかるべきなので、このような一文を草してみた。

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