出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1093 自費出版者としての島崎藤村

 『金色夜叉』後編巻末の明治三十三年時点での春陽堂出版広告において、島崎藤村は「詩俳書之部」に分類されていることに気づかされた。そこには『若菜集』『一葉集』『夏草』の三冊が見え、明治三十年代には春陽堂にとって藤村が、尾崎紅葉を始めとする硯友社の作家たち、村井弦斎、村上浪六などと比べて、詩人ゆえに傍流にあったことをうかがわせている。それは藤村の出自である『文学界』同人と春陽堂の関係にも反映されているのかもしれない。
f:id:OdaMitsuo:20201024114645j:plain:h118

 しかしそうであっても、出版史から見れば、藤村自身と春陽堂は密接極まりなく、初期詩集とそれに続く作品も、ほとんど春陽堂から刊行されている。それらのタイトルと刊行年を挙げてみる。

1『若菜集』   明治三十年
2『一葉集』  明治三十一年
3『夏草』    明治三十一年
4『落梅集』   明治三十四年
5『藤村詩集』  明治三十九年
6『緑葉集』   明治四十年

f:id:OdaMitsuo:20201119144542j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20201119145526j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20201119151712j:plain:h120

 とりわけ処女詩集『若菜集』所収作品は多くが『文学界』に発表されたもので、藤村の抒情詩人としての最初の文学的成功、日本の近代詩の出発を告げる歴史的な記念碑とされ、それに三つの詩集が続き、5の『藤村詩集』は先行する四詩集の合本である。6の『緑葉集』は『新小説』に発表した「水彩画家」などを収録した短編集なので、明治三十年代前半の藤村の詩集出版は、春陽堂とのコラボレーションなくして語ることができないといっていいだろう。だがそうした春陽堂との関係の成立事情は定かではない。

 これらの詩集のうちで、1の『若菜集』と5の『落梅集』が手元にある。もちろん初版原本ではなく、近代文学館の復刻で、明治二十年代に出版社・取次・書店という近代流通システムが立ち上がっていたにしても、このような詩集がいかなるルートで読者のもとへと届けられていたのか、あるいは初版部数のことなども気にかかる。

 『若菜集』は四六判よりも一回り小さく、『落梅集』のほうは四六判だが、いずれも並製で、背表紙にタイトルの記載はない。それもどのようにして書店で販売されていたのか、もしくは通信販売によっていたのかという想像をたくましくしてしまう。その黒字の表紙に蝶が舞い、その羽と背に『若菜集』、その上に「島崎藤村著」とある。その表紙を繰ると、「こゝろなきうたのしらべは/ひとふさのぶだうのごとし/なさけあるてにもつまれて/あたゝかきさけとなるなむ」に始まる赤字の三連の序詞が目に入る。その次のページには同じく赤字で序文に当る「明治二十九年の秋より三十年の春へかけてこゝろみし根無草の色も香もなきをとりあつめて若葉集といふなり」が書きつけられている。

 そして「おえふ」「おきぬ」「おさよ」などの「六人の処女」一連が謳われ、それに異なる出会いと性格の女性に仮託し、自らの感情を変奏しようとしている。その後に続く「草枕」は「夕波くらく啼く千鳥/われは千鳥にあらねども/心の羽をうちふりて/さみしきかたに飛べるかな」とあり、海辺にてそのような思いに捉われている近代青年の姿を描いた中村不折の挿絵も見える。それは後の『春』の和田英作による悩める青年の口絵を彷彿させる。『落梅集』にもふれたいのだが、冒頭に「小諸なる古城のほとり」の掲載があるとだけにとどめる。

 さて前置きが長くなってしまったけれど、ここでも本探索1088、1089、1090と続けて言及してきた春陽堂の印税問題に関しても書いてみる。『若菜集』と『落梅集』の奥付を見てみると、前者は実価二十五銭、後者は三十五銭だが、著作権所収の欄には春陽堂の印が押されている。これは既述しているように、藤村には印税が生じない原稿買切扱いで、この二冊が出版されたことを意味している。それに「実価」とは定価制度がまだ出版業界に普及していなかったことを示し、値引き販売の状況を示唆するものだ。その実価や初版部数を推定しても、それほど多くの印税がもたらされたとは思わないが、原稿料は詩集ということもあって、驚くほど安かったのではないだろか。

 そればかりか、先に挙げた六冊すべてを見ていないけれど、少なくとも5の『藤村詩集』までは春陽堂に版権があったはずだ。藤村は詩人として名を高めていたが、その収入は明治三十年代の抒情詩のトレンドを導き、多くの詩人に影響を与えた藤村に満足のゆくものではなかったと考えられる。つまり散文的にいえば、詩では食っていけないと自覚した。

 そのように考えてみると、藤村が明治三十九年に『破戒』を書き下ろし、自費出版したことがよくわかるように思われる。この小説と自費出版に関しては、拙稿「『破戒』のなかの信州の書店」(『書店の近代』所収、平凡社)、本探索1011で言及しているが、藤村にとって詩人ならぬ作家への自立の試みであるだけでなく、作家と出版者を兼ね、自ら事業家としての出版社を興そうとする意志の実現だったのではないだろうか。それゆえに、取次の上田屋を発売所とする藤村のプライベートプレスといえるであろう「緑蔭叢書」は『破戒』に続いて、明治四十一年には『春』、四十四年には『家』上下と続刊されていったのである。

書店の近代  f:id:OdaMitsuo:20201119152558j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20201119151000j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20201119150159j:plain:h120

 しかし大正二年の「緑蔭叢書」第四篇に当たる『微風』が新潮社から刊行されるに読んで、藤村の出版者たらんとする試みは終わったのである。それは『破戒』によって作家としての地位を確立し、明治四十一年には『東京朝日新聞』に『春』を連載し、安定した原稿料、及び出版社からも印税を得るようになったからだと思われる。例えば、これも近代文学館の復刻だが、大正元年の左久良書房『千曲川のスケッチ』は奥付の著作者名のところに藤村の押印があり、これは藤村の著作権と印税が確保されたことを意味していよう。
f:id:OdaMitsuo:20201119153619j:plain:h115

 しかし小川菊松が『出版興亡五十年』で証言しているように、『破戒』は「あれだけ文壇の評判になった程の大作」ゆえに、「売れるには売れたが、我々玄人仲間では、当時期待したほどの成績ではなかつた」のである。出版の場合、流通や販売、取引条件や広告にしても、「やはり餅は餅屋でなければ、いけない」と小川は見ているのだ。つまり出版は作家であっても可能だが、出版業は「餅屋」でないと成立しないことになる。だが藤村の作家自身による出版の試みは彼だけで終わったのではなく、大正の作家たちにも刺激を与え、引き継がれていったし、そのひとつの例を挙げれば、『破戒』の読者だった夏目漱石による大正二年の岩波書店からの『こゝろ』の自費出版もそうだったと思われる。

出版興亡五十年


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら