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古本夜話1104 金谷真『川面凡児先生伝』

 ここで間奏的一編を挿入しておこう。
 前回、『神道辞典』から今泉定介(助)の立項を引いたところ、大正十年頃に川面凡児の大寒禊の行事に挺身参加した後、「皇道」の宣布に東奔西走するとの記述が見出された。さらに『同辞典』で川面凡児を繰ってみると、神道に則ったと思われる一ページ半に及ぶ立項もあったので、それを要約してみる。

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 川面は文久二年に大分県の名門に生れ、敬神の家風に育ち、山にこもって不惜身命の修行を経て、神仙の啓導を得る。その一方で漢学に習熟し、二十四歳で上京して新聞記者などを務め、法律、経済、及び禅学や浄土宗といった仏学にも励み、明治三十九年に「全神教趣大日本世界教」を宣布し始める。それは実地体験を通しての「人生宇宙の根本大本体」の究明に基づき、『古事記』を始めとする古典も本質的に了解される。その一環として、「祖神垂示」の禊の行事が用意され、同四十二年から「祾威(ミイツ)会」として海岸に滝水に遂行され、大正五年頃から神職者、及び国学者の今泉定介たちの協賛となり、その神事運動形式は全国的流行ともなるに至ったが、昭和四年に六十八歳で病没とある。

 実は三十年程前に、古書目録によって金谷真『川面凡児先生伝』(祾威会星座連盟、昭和四年初版、同四十四年第九版)を入手している。この著者の金谷は同書において、川面の葬儀の庶務係長として見えているので、川面の秘書的立場であったと推測される。四六判、五八二ページで、彼の没年に出版され、その誕生から死までを詳細にたどり、多くの著作リストや和歌なども収録していることもあって、先の立項はこの伝記を参照しているはずだ。

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 ここに描かれている川面のポルトレは平田篤胤に連なる古神道的宗教家、教育者、ジャーナリスト、出版者としての多彩な軌跡だが、それは大正時代特有のモードを孕んでいるように思われる。そうしたモードは同時代に急成長していた大本教をめぐるトレンドとも共通し、かつての拙稿「浅野和三郎と大本教の出版」(『古本探究Ⅲ』所収)などを想起してしまう。またそれだけでなく、この伝記には、やはり拙稿「心霊研究と出版社」(同前)の千里眼千鶴子、『近代出版史探索Ⅱ』247のスエデンボルグへの言及もあり、さらに『近代出版史探索Ⅳ』652の神智学のオルコット大佐、同689の釈宗演やダルマパーラも登場し、川面と出会い、彼らも同時代人であることを知らしめている。

古本探究3 近代出版史探索Ⅱ 近代出版史探索Ⅳ

 しかしそうした大正時代の宗教的人脈もさることながら、この伝記を貫いているのはその収録写真にも表象されているように、川面の行者としての在り方、及びその実践としての禊、時代を象徴するパフォーマンスとしての禊であろう。そこに『古事類苑』などの古典籍編輯者の今泉が引き寄せられ、それに神職者たちや軍人たちが参集していき、「ついに、その神事の運動形式は全国的な流行ともなるにいたった」と考えられる。

 その川面の十年祭が昭和十四年二月に東京九段下の軍人会館において、朝野の名士二千余名を集めて開催された。そこで今泉は「川面先生を偲ぶ」と題し、「川面先生の偉大なる卓見は、祖神の垂示を体してみそぎの行を実践躬行し、その体得によつて得られるものであると喝破し、これ実に日本における斯道の先覚者や学究の徒の企て及ばざりし造詣にして、世界において最もたふとき偉大なる卓見が蘊蓄されてある」との多大の称賛を尽くしたという。これ川面の「行者」としての禊の「実践躬行」に対する今泉のオマージュということになろう。さらにこの禊にもとづく神社行事は大東亜戦争下において、大政翼賛会を通じて全国の神社へと継承されたとも伝えられている。

 その「行者」で連想されたのは「会葬の諸名士」リストにあった飯野吉三郎で、政治家や国会議員、神社宮司、海軍、陸軍高官に紛れて、「穏田の行者」の姿を見出せる。松本清張の『昭和史発掘』(文藝春秋)において、飯野は『週刊文春』では「政治の妖雲・穏田の行者」として連載されていた。だが藤井康栄『松本清張の残像』(文春新書)によれば、清張の意向で単行本収録は見送られたという。この一作はその後何かに収録され、読んだように記憶しているが、それが思い出せない。そこで、事件・犯罪研究会編『明治・大正・昭和 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版)を引いてみると、「飯野吉三郎“黒幕”失墜事件」として立項されていた。それをたどってみる。

昭和史発掘 松本清張の残像 明治・大正・昭和 事件・犯罪大事典

 飯野は官政財界の黒幕として知られ、宮廷内にも強い影響力を擁していたことから、「和製ラスプーチン」と呼ばれていた。彼は日本精神団という天照大神を祭る国粋宗教団体を組織し、青山の穏田に広大な屋敷を構えていたこともあって、「穏田の行者」と称されていたのである。大正十三年に枢密院議長の清浦奎吾が首相となったが、それを背後で支え、画策したのが飯野に他ならなかった。しかし清浦内閣の評判は悪く、わずか六ヵ月で退陣となった。それに伴い、黒幕の飯野も攻撃にさらされ、同十四年の恐喝暴行事件と下田歌子などとのスキャンダル暴露も重なり、黒幕失墜をもたらすことになったのである。だが昭和四年の川面の死に際し、「会葬の諸名士」として飯野の名前も挙げられていたことからすれば、まだ「黒幕」として延命していたのかもしれない。

 『古事記』『日本書紀』を始めとする古典籍を通じての古神道の発見、それに連なるであろう川面凡児の位相、官政財界の黒幕としての「穏田の行者」飯野の存在を考えてみると、松本清張が晩年になって、『神々の乱心』(文春文庫)へと向かったのは必然的だったと思わざるをえない。大正時代の川面や飯野が体現していた古神道、軍部、宮廷との三位一体の関係は、昭和十年代に入って支那事変も起き、アジア特有のシャーマニズムも巻きこむかたちで、さらに白熱化していったのではないだろうか。私も「松本清張『神々の乱心』と宮中儀式略」(『古本屋散策』所収)でもふれているが、『神々の乱心』が清張の死によって未完に終わったのは本当に残念だというしかない。

神々の乱心 古本屋散策

 なおやはり藤井編『昭和史発掘 特別篇』(文藝春秋)に「穏田行者」は収録されていたことを付記しておく。

昭和史発掘 特別篇


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