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古本夜話1105 郁文舎と内藤耻叟、三輪文次郎『一覧博識漢学速成』

 前々回、『古事類苑』に端を発して、古典籍などに関する出版人脈が形成されていったのではないかと述べたが、流通や販売のみならず、それは印刷業界の人々も含んでだったと推測される。そのことを立証する一冊を入手したので、やはりここで書いておきたい。

 本探索1075の『日本随筆大成』第二期の発行者兼印刷者が桜井庄吉で、同1076の『日本図会全集』の編輯兼発行者も同様であることを既述しておいた。この他ならぬ桜井が昭和円本時代以前は印刷者だったことを示す一冊を、浜松の典昭堂で見つけたのである。それは『一覧博識漢学速成』、発行所は郁文舎、発行者は名古屋中区の三輪文次郎、印刷者は京橋区柳町の桜井庄吉、郁文舎と桜井の住所は同じなので、ここでも櫻井は出版者と印刷者を兼ねていたことになる。ただ同書は明治二十六年初版発行、同四十三年第十八版ゆえに、初版から郁文舎が版元だとは考えられない。しかし奥付の「版権所収」は三輪の押印があることからすれば、桜井の立場は版元ではなく、引刷と発売所を引き受けたと考えるべきであろう。

(『日本随筆大成』)

 これはまさに漢文の学参と称すべきもので、四六判上製の背表紙にタイトルが見えるだけだが、本扉には内藤耻叟、三輪文次郎合著、上篇「経史諸子要旨」、下篇「古事要語詳解」とある。本扉を繰ると、内藤の漢文による二ページの「漢学速成序」が寄せられている。それを読むと、「尾張静観堂主人」が「古事要語詳解」を編み、刊行するので、自分の「嘗著経史諸子要旨」との合著にしたいとのこと、そこでタイトルは『漢学速成』とした旨が語られている。それは明治二十六年五月付なので、初版の際に書かれたとわかるし、「尾張静観堂主人」とは三輪文次郎自身だと確認できる。

 その「序」にあるように、上篇の一三三ページが内藤、下篇八三四ページが三輪によるもので、いってみれば、地方の漢文研究者が内藤との合著によるお墨付きを得るようなかたちで上梓した学参と見なせよう。しかし二十年近く版を重ねてきた事実を考えると、明治後半も漢文の時代は続いてきたことを示唆している。内藤のプロフィルは『明治維新人名辞典』は長いので、神谷敏夫『最新日本著作者辞典』から引いてみる。

 内藤耻叟 ないとうちそう
 明治時代に出た史学者である。初の名を正直といひ、碧海と号した。水戸藩士で、弘道館に入り、藤田東湖・会沢正志斎に学び、後幕府に召され勤王の志士武田耕運斎を那珂湊に討つた。弘道館教授となつたが、藩老と議論合はず罪を得て東北に潜伏したこともある。明治十一年東京小石川区長となり、後文科大学教授となつた。其の間、皇典講究所・斯文学界等の講師をも勤めた。殊に江戸幕府の事情に詳しかつたので重望があつた。正六位に陞り、明治三十五年六月(二五六二・一九〇二)七十七歳で没した。著書に安政紀事・徳川十五代史・徳川制度・徳川氏施設大意・徳川代貨幣制度・江戸文学志等がある。

 本探索1092の戸川残花と「幕末維新史料叢書」のところで、この「叢書」に内藤の『安政紀事』』が含まれていることを記したばかりだ。このような内容と内藤のプロフィルからすれば、彼は残花ばかりか、その他の「叢書」の著者たちとも、明治を迎え、同じく旧幕臣として交流があったはずだ。それだけでなく、ここに挙げられた内藤の徳川時代に関する著作リストや教授、講師歴から考えると、『古事類苑』から始まる古典籍出版の近傍にいたはずで、実際に『古事類苑』では監修者の立場にあった。

 そのようにして、三輪=「尾張静観堂主人」とも知り合い、さらには印刷者の桜井とも面識を得ていたように思われる。それは桜井の郁文舎という版元名からもうかがわれるからだ。「郁文」とは『論語』の「郁郁乎文哉」から取られたもので、「文物が盛んなこと」を意味している。郁文舎は尾張ではなく、その住所を東京市京橋区に置いているわけだから、三輪というよりも内藤の命名と考えたほうが妥当であろう。

 明治二十六年の初版は郁文舎ではないと思われるが、版を重ねていく過程で、紙型の売買がなされ、印刷者だった桜井がそれを入手し、郁文舎として『一覧博識漢学速成』の版元となったと考えられる。あるいはその時期は内藤の死後の明治三十五年以降で、版権が三輪個人のものに帰したことと呼応しているのかもしれない。しかしいずれにしても、同書の出版を機として、櫻井は印刷者でありながら、出版者も兼ねるようになり、昭和円本時代にはいって、本格的に『日本随筆大成』第二期や『日本図会全集』を手がけることになったと推測される。だがその結果がどうなったのかは判明していないので、これからも円本以後の桜井の名前と行方を注視していきたいと思う。


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