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古本夜話1108『群書類従』の近代出版史

 『古事類苑』を取り上げたからには、その範ともなった『群書類従』にも言及すべきだろうし、実は前者と異なり、後者は架蔵してもいるからだ。この江戸時代の盲人塙保己一によって編まれた日本で初めての百科事典は文芸叢書の成立と出版事業に関しては、紀田順一郎「文献データベースの夜明け―塙保己一と『群書類従』」(『日本博覧人物史』所収)などに譲り、ここではまずその近代出版史にふれてみたい。

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 私の手許にあるのは続群書類従完成会が昭和三十四年に刊行した『群書類従』の補巻も含めた全三十巻、訂正三版で、その初版は昭和三年、再版は十四年だと考えられる。だが『群書類従』は『全集叢書総覧新訂版』に見られるように、正続合わせて、明治時代には経済雑誌社、国書刊行会、大正時代からは続群書類従完成会、昭和に入って前回の内外書籍、太洋社、酣燈社、古典保存会、第一書房、名著普及会などが入り乱れて復刻を繰り返しているので、混乱極まりないといっていい。しかし大正から昭和戦後にかけて、一貫して『群書類従』刊行に取り組んできたのは続群書類従完成会なので、そこに至る過程をたどってみる。

全集叢書総覧新訂版

 拙稿「田口卯吉と経済雑誌社」(『古本屋散策』所収)において、田口の経済雑誌社の出版事業を取り上げ、田口が明治二十年代後半から三十年代にかけて、来るべき総合的辞典のための日本史の史籍整理として正続『群書類従』出版の試みに挑んだことにふれておいた。それは予約出版によるもので、私見によれば、近代出版において田口が初めて採用した流通販売システムであったし、『泰西政事類典』(明治十五年)や『大日本人名辞書』(同十九年)も、そのようにして出版されたのである。近代出版の雄である博文館はまだ創業しておらず、出版社・取次・書店という近代出版流通システムも同じく立ち上がっていなかったのだ。

古本屋散策

 それは『大日本人名辞書』の場合、成功したけれど、明治二十六年の第一版『群書類従』全十九冊は六五〇人の予約者を集めたが、新しい活字の彫刻などの経費がかさみ、赤字となった。同三十一年の第二版は一七五〇人の予約を得て、再版でもあり、利益を得たようだ。だが明治三十五年から大正元年にかけての『続群書類従』第一版は田口が途中で亡くなったこともあり、三十四冊の予告が十九冊で中絶してしまった。

 それを引き継いだといえるのが国書刊行会第一期で、明治三十九年に『続々群書類従』十六冊、『新群書類従』は十冊刊行したが、復刻事業の「量的制限」もあって、双方合わせて六冊の削除となった。そして同四十三年から第二期の早川純三郎編集長時代に移行する。その際に国書刊行会の編集担当者だった太田藤四郎が、経済雑誌社で中絶してしまった『続群書類従』の続刊を提案するが、早川に受け入れられず、大正十一年に国書刊行会もそのまま解散となってしまった。そこで同年に太田は国書刊行会の編集者たちと続群書類従完成会を設立し、『群書類従』新版七十二冊を出版していく。

f:id:OdaMitsuo:20210107171748j:plain:h80(『続々群書類従』)f:id:OdaMitsuo:20210107175008j:plain(続群書類従完成会編)

 『全集叢書総覧新訂版』ではなく『世界名著大事典』第六巻のほうの『群書類従』刊行史を確認してみると、続群書類従完成会は円本時代から九年にかけて「正編」三十冊を出版しているので、これが第一版、同じく同十年版が第二版、私が架蔵する戦後の三十四年版が訂正三版だと判明する。すなわち二十九輯と「正続分類総目録・文献年表」を加えての全三十巻ということになる。ただ手元にあるのはB6判だが、A5判も出されているようだ

世界名著大事典

 ここでは「正続分類総目録・文献年表」の一冊を見てみる。奥付に同書は昭和五年版の訂正増補で、昭和三十四年刊行とある。編纂者は太田藤四郎、発行者は太田節と記され、平成に入っての『群書類従』発行者社は太田善麿だったことからすれば、太田一族が一世紀近くにわたって家業としての『群書類従』出版に従事してきたとわかる。また検印のところには「続群書類従完成会印」が押され、同会の版権所有をも伝えている。おそらく戦前のみならず、戦後まで錯綜していた版権問題が解決したことを告げてもいよう。

 またこの「正続分類総目録・文献年表」には他の巻には見られない「緒言」が昭和四年九月の日付で記され、これは円本時代の第一版に寄せられたものだとわかるし、まさに太田藤四郎が編纂者として書いているはずだ。そこには簡略な『群書類従』の紹介と其完成会出版事情も述べられているので、その前半の部分をここに引いてみる。

 昔し検校、一千二百七十余種の古書を集め、之を二十五の部類に分ちて、一部の書に編みなし、群書類従と名づけ、桜の木に彫り、楮の紙に摺り、六百六十冊に仕立て、別に目録一冊を添へて、世に広め後に伝へおきたまひぬ。加え更に其続篇として、二千一百余種をも集め、写本のまゝにて遺しおきたまへり。其目録二冊は、早く梓行して人に知られたり。今や聖代文運の盛なるに逢ひ、我が完成会にて、その正続二篇の書を併せて、新に活字にて摺り上げ、之を壹百冊に綴じなして、遠く海の外にも送りぬ。検校も遺志の成りぬるを悦びたまふらむかし。その昔し此の書を集めたまひし時に、旨する筋道を記しおきたまひけむもの、今の世には聞えず、其の昔しの深き思ひはかりを、今愚なる心に汲みとる由の無きぞ口惜しき。

 しかし塙保己一の「昔しの浮き思ひ」を継承しようとする出版の「筋道」とその行方は困難と不安が予想されたようで、「緒言」は「かの遺志に背かじと且つは思ひ、且つは便り善かれと今に人の為を思ふに、思ひまどふすじみち多かるを、はたいかにかせむ」と結ばれている。

 それでもその後の昭和時代を通じて、同会によって数次に及んで『群書類従』の出版は続けられていた。だが平成十八年になって、続群書類従完成会は倒産し、その出版事業は翌年に八木書店に継承される「筋道」をたどったのである。

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