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古本夜話1110 田口卯吉『支那開化小史』と塩島仁吉

 前々回に田口卯吉と経済雑誌社の名前を挙げておいたが、田口の『支那開化小史』を入手しているので、この一冊も取り上げておこう。同書は『日本開化小史』(岩波文庫)と異なり、文庫化されていないが、中扉、奥付などから判断すると、明治十六年から二十一年にかけて全五冊刊行後、二十三年に合本化されたものの同年再版訂正本だと見なせよう。この菊判上製、三九八ページの端正な一冊本は背表紙に「全」とあること、及び蔵書印やラベル貼付を考えれば、架蔵者による和本の洋本化のための造本が施されている。それは近代化の中での田口の「開化史」(文化史)に対する敬意だけでなく、経済雑誌社への配慮もうかがわれるように思える。蔵書ラベルには嘉治とあり、岩波文庫の『日本開化小史』校訂者が嘉治隆一だから、何らかの関係が秘められているのかもしれない。

f:id:OdaMitsuo:20210109110142j:plain:h110(『日本開化小史』)

 それゆえに、まずは『出版人物事典』における田口の立項を挙げてみる。

出版人物事典

 [田口卯吉 たぐち・うきち 号・鼎軒]一八五五~一九〇五(安政二~明治三八)経済雑誌社創業者。東京生れ。英語、蘭医学、経済学を学び大蔵省に入る。仕事のかたわら『日本開化小史』『自由貿易日本経済論』を書く。一八七八年(明治一一)官を辞し、翌年一月、経済雑誌社を創業、『東京経済雑誌』を創刊、一貫して自由貿易経済論の立場をとる。また雑誌『史海』を創刊。同社が発行した『大日本人名辞書』『日本社会亊彙』『国史大系』などは良書の大衆化をねらったもので、予約出版の方法をとるなど、明治出版文化史上画期的なものといわれる。法博。東京府会議員、衆議院議員などをつとめた。

 ここには記されていないけれど、田口は旧幕臣で、静岡藩に復任し、沼津兵学校に学んでいる。それらの人脈は山口昌男「幕臣の静岡―明治初頭の知的陰影』(『「敗者」の精神史』所収、岩波書店)に描かれている。そうした事柄をリンクさせていってみれば、田口は旧幕臣の出版者として、いち早く経済雑誌社を設立し、自らの著作も刊行していったのである。

「敗者」の精神史

 『支那開化小史』の「例言」において、田口は次のように述べている。「社会の大勢事情の変遷を記するは史論躰に如かず」で、支那の史家は卓見多けれど、「唯、一時の変遷を述ふるに止まれり」。それゆえに「浅学寡聞極めて遺漏多き」は承知の上で、「此書勉めて其所見を引証して、以て之を連続せしめんとせり」と。
 
 そしてその「目録」の第一章の最初は「支那の地勢」と題され、それに呼応するように、折り込みの「支那本部全図」が示され、「亜細亜の東方に大なる郊原あり、渺茫として数千里に渉れり、称して支那国と曰ふ」と始まっていく。鼇頭(ごうとう)の部分には漢文による各人からの引用注記がなされ、それらが本文の補注の役割を果たしているのだろう。ただそれらの人物と出典に関してはこちらの素養不足もあって確かめられない。

 そのようにして「支那開化」がたどられ、各時代の変遷を象徴させるように、やはり折り込みの「七国地境図」「漢楚之形勢」「三国分割之形勢」がそれぞれに示され、明の時代にまで及んでいく。

 田口の「例言」に見えるように、『支那開化小史』に「批評」を寄せているのは島田三郎、末広重恭、小池靖一、「跋」は中根香亭で、島田と中根は沼津兵学校での同窓と師であるから、末広や小池も、その関係者のように思える。だが当時の漢文リテラシーを彷彿とさせるように、三人とも漢文でしたためているので、それらの子細は読み取れないことも記しておこう。

 これらの『支那開化小史』本文も日本近代における支那を表象して興味深いのだが、それ以上にリアルなのは巻末の八ページに及ぶ「経済雑誌社発兌書目録広告」で、先に立項に挙げられたものや田口の著書も含めて五十点余の書籍が掲載されている。そこにはヘルベルト・スペンセル『社会学之原理』(外山正一閲、乗竹孝太郎訳)、アダムス・スミス『国富論』(尺振八閲、石川暎作訳)もあり、社会学や経済学の古典が早くも翻訳されていたことを教えてくれる。またさらに『東京経済雑誌』と『史海』の雑誌も一ページ広告されているので、まだ博文館は創業したばかりだったことからすれば、経済雑誌社はこの時代にあって、突出した大出版社だったといえるのかもしれない。

 その流通と販売を支えた「売捌書肆」一覧も奥付裏に示されているので、それらも挙げておこう。東京は北畠茂兵衛、小林新兵衛、輿論社、巖々堂、東京堂、中西屋、大阪は嵩山堂、岡島真七、梅原亀七、松村九兵衛、京都は大黒屋、名古屋は川瀬代助、熊本は長崎次郎、これに丸善書店が東京、大阪、横浜にあり、この時代に丸善がすでに大阪、横浜に支店を出していたとわかる。これらの近代書店といえる「売捌書肆」が他の書店への取次も兼ね、近代出版社としての経済雑誌社の直販以外の流通販売を担っていたのである。

 それは『支那開化小史』の広告に付されているように、「文部省検定済尋常師範学校及び尋常中学校教科書用」に選定されていたことも大いに作用しているはずだ。なおこれらの「売捌書肆」に関してはすべてではないけれど、拙書『書店の近代』で言及しているので、よろしければこちらも参照されたい。

書店の近代

 しかしこのような流通販売インフラの中での田口と経済雑誌社の出版活動は、経済的に苦難に充ちていたと想像するに難くない。『東京経済雑誌』は自由主義経済を主張し続けたことで、何度も禁錮罰金刑に処せられていることにも明らかであろう。実際に『支那開化小史』の奥付はそれを垣間見せている。著作兼印刷者は田口だが、発行者としては「経済雑誌社仮持主」とある塩島仁吉の名前がすえられている。そこに「版権所収」は謳われているけれど、田口の押印はない。それらの事実からすると、経済的事情が絡んでいると推測されるし、管見の限り、「発行者兼経済雑誌社仮持主」といった奥付表記はここで初めて目にするものだ。

 塩島(宮川)の名前は杉村武「田口鼎軒と東京経済雑誌社」(『近代日本大出版事業史』所収)で、『泰西政事類典』や『大日本人名辞書』の編纂者、先の「広告」の『泰西経済学者列伝』の纂訳者として見えている。しかし彼の詳細なプロフィルは判明しないけれど、経済雑誌社の中枢にいて、田中の出版事業を支えた一人であったことは確実であろう。

 念のために、復刻版『大日本人名辞書』(全五巻、講談社学術文庫)を確認したが、塩島の手がかりはつかめなかった。ただその代わりに、この復刻版が昭和十一年の内外書籍株式会社の川俣馨一による新訂版『大日本人名辞典』に基づくものだと知った。内外書籍と川俣に関しては『近代出版史探索Ⅱ』262でふれているが、経済雑誌社の『大日本人名辞書』の復刻にも連鎖していたことになる。

f:id:OdaMitsuo:20210109142543j:plain:h100(講談社学術文庫版)近代出版史探索Ⅱ

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