出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1112 佐村八郎『国書解題』、岩波書店『国書総目録』、梅徳

 本探索1107、1108で続けて『古事類苑』と『群書類従』をたどってきたので、これは戦後の出版ではあるけれど、『国書総目録』にもふれてみたい。実は拙稿「浜松の泰光堂書店の閉店」(『古本屋散策』所収)で既述しているように、二十年ほど前のことになるが、『国書総目録』全八巻を購入しているからだ。

f:id:OdaMitsuo:20210109101339j:plain  古本屋散策

 それに加えて本探索1107で参照した熊田淳美の『三大編纂物 群書類従 古事類苑 国書総目録の出版文化史』のコアは『国書総目録』で、様々に教示されるところが多かった。これらの「三大編纂物」は江戸、明治、昭和を通じて、それぞれが長きにわたる歳月と膨大な製作費をかけた特筆すべき出版プロジェクトに他ならないし、『古事類苑』と『群書類従』に関してはすでに見てきたとおりだ。

三大編纂物 群書類従・古事類苑・国書総目録 の出版文化史

 その中でも、とりわけ『国書総目録』は熊田も述べているように、ロジェ・シャルチエの『書物の秩序』(長谷川輝夫訳、筑摩書房)に見えるターム「壁のない図書館」を体現するビブリオテークに相当している。この明治以前の国書五十万点に及ぶ総合国書目録は昭和十五年に始められ、昭和四十七年の全巻完成までに三十二年を要している。その歴史を熊田の前掲書、『国書総目録』第一巻の「編纂の辞」、『岩波書店七十年』などを参照し、たどってみよう。

f:id:OdaMitsuo:20210108171703j:plain:h120(『書物の秩序』)

 昭和十五年に岩波書店の岩波茂雄は『国書解題』刊行計画を公表した。それは明治時代の佐村八郎の『国書解題』を凌駕する国書解題目録編纂をめざすものだった。佐村は古代から慶応三年に至る国書を対象とする解題目録『国書解題』を月刊分冊形式で刊行した後、明治三十三年に合本化し、本探索1077の六合館から上梓する。そして三十七年には増訂第二版を吉川弘文館と六合館の共同出版として刊行するが、国書の選択と考証不足という批判もあり、佐村の死後の昭和時代には絶版になっていたようだ。

f:id:OdaMitsuo:20210109103005j:plain(日本図書センター復刻)

 佐村は山口県に生まれ、明治二十四年に上京し、哲学館、高等師範を経て、本探索1103などの今泉定助が設立した城北中学校の教師となり、そのかたわらで『国書解題』編集の決意を固めたと思われる。その今泉が吉川弘文館と国書刊行会の顧問的立場にあったことは既述しているが、そうした関係もあってか、三十三年に佐村は吉川弘文館に入る。そして編集に携わり、その番頭だった林平次郎の六合館から『国書解題』合本初版を刊行するに至る。

 この『国書解題』刊行を契機として、国書刊行会が発足し、「国書刊行会本」、『古事類苑』や『群書類従』の出版も続いていったのである。そして昭和円本時代を迎えての本探索1073、1074の「有朋堂文庫」や同1060の新潮社の『日本文学大辞典』などの出版、及び国史や国文学研究の進化も伴い、二万五千点を対象とする『国書解題』は多くの欠陥を有するものに位置づけられざるをえなかった。それが岩波による新しい『国書解題』企画発表の背景だった。

 昭和三十八年に「岩波書店創業五十年の記念出版」として刊行された『国書総目録』第一巻の「編纂の辞」において、岩波茂雄の発意で、辻善之助と新村出の主宰のもとに編纂事業が始まったのは昭和十四年のことだとして、次のように続いている。

 当時国書の解題として知られていたのは、佐村八郎氏の『国書解題』であるが、初版が出版されてからすでに数十年を経過し、その間増訂も行なわれたが、決して十分なものとは言い難く、もはや、日進月歩の業界の要望を満足させることはできなくなっていた。そのような情勢のもとに企画された『岩波国書解題』は、当時してはもっとも整った編集部を組織し、(中略)昭和十九年は、ほぼ第一巻の刊行の見通しがつくまでになった。しかし時はすでに日華事変から太平洋戦争に進んで、(中略)この仕事もついに中絶のやむなきに至った。
 (中略)戦後、世情が安定するとともに、(中略)昭和三十二年に至って、従来のような解題に代え、このカードを基礎にして、新たに国書の総目録を刊行するという方針が決定された。編纂を委託されたわれわれは、総目録といっても、単なる国書の目録ではなく、書誌学の成果を十分に取り入れ、(中略)新たに国書研究室を設け、目録類などの資料を整備して、『国書総目録』の編纂に当ることにしたのである。(後略)

 これは国書研究室の森末義彰、市古貞次、堤精二の名前で出され、五十万点収載、全八巻として、その第一歩を踏み出したのである。ただここに付け加えておかなければならないのは、熊田も指摘しているように、実際にこの企画を岩波に提案したのは岩波書店の梅徳(うめめぐみ)だとされている。彼は明治期の法学者梅謙次郎の息子で、東京帝大文学部史学科を中退し、昭和十年頃に岩波書店に入社している。実際に同十三年から始まる『国書解題』編纂作業の事務主任兼編集者となった。戦後を迎えて、梅は渋る岩波書店を説き伏せ、『国書解題』の仕事の再開を働きかけ、その結果設けられたのが国書研究室だったのである。だがその進展をほとんど見ることなく、梅は昭和三十三年に交通事故で急逝している。ここにも知られざる編集者がいたことになる。

 これは近代出版史に顕著だが、岩波書店の場合も、岩波茂雄と小林勇の影に隠れ、社史や出版目録などには現れていない多くの編集者がいる。梅もその一人であったといえよう。


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