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古本夜話1115 石原俊明、国際情報社、大正通信社『国際画報』

 前回、小川菊松が証言する「外交販売専門で、大正期に早くも大成功した」石原信明の名前を挙げておいたが、石原は『出版人物事典』にも立項が見出せるので、まずそれを引いてみる。

出版人物事典―明治-平成物故出版人 

 [石原俊明 いしはら・としあき]一八八八~一九七三(明治二一~昭和四八)国際情報社、大法法輪閣創業者。一九二二年(大正一一)有限会社国際情報社を東京・銀座山下町に創業、大型グラフ雑誌の月刊『国際写真情報』を中心に、『世界画報』『映画情報』『婦人グラフ』などの写真グラフ雑誌を出版。また、三三年(昭和八)大法輪閣を併設、仏教専門雑誌『大法輪』を創刊、仏教関係書を出版した。『国際写真情報』などは直販形式をとり、その販売形式はその後の直販業界の基礎ともなった。敗戦の四五年(昭和二〇)一時休業したが、五一年(昭和二六)株式会社国際情報社として再出発、大法輪閣も独立した。

 この立項によって、前回の村上の「宗教書ルート」と外交販売がリンクするし、これも小川のいう石原が「終戦後再起を躊躇」との事情が伝わってくる。ただこうした直販形式のグラフ雑誌に群がった「この畑育ちの連中」は、石原氏以外には『出版人物事典』『日本出版百年史年表』にも見出せないので、戦後を迎え、一世を風靡したと思われる、この出版分野の詳細はもはやたどることは難しいだろう。

 そのように認識していたし、また古本屋でそれらのグラフ雑誌に出会うこともなかったので、気になりながらも詳細に言及する機会は得られないだろうと考えていた。

 ところが数ヵ月前に骨董市で、それらの戦前戦後のグラフ雑誌が束になって売られていたのである。戦前版は大正通信社の『国際画報』、戦後版は国際写真通信社の『国際写真通信』、国際情報社の『映画情報』だった。いずれも菊倍判、もしくはB4判といっていいのか、かつての新聞社系の『アサヒグラフ』や『毎日クラブ』を一回り大きくした雑誌と目されたい。

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 戦後の『国際写真通信』は編集人を佐介賢、発行人を高田俊郎とするもので、昭和三十、三一年の号が十一冊、それに対し『映画情報』はまさに編集兼印刷人を石原俊郎としているけれども、残念ながら一冊しかない。そうしたこともあって、ここでは戦後版と比べて洗練されておらず、編集や印刷もぎこちないが、グラフ雑誌の原型の面影をとどめている『国際画報』にふれてみたい。

f:id:OdaMitsuo:20210112175610j:plain(『国際画報』)

 これは昭和三年三月号から七月号までの五冊が専門のバインダーに収められたもので、そこには『国際画報』のタイトルの下にTHE INTERNATIONL PICTORIALが謳われ、これが英訳で、そのようなコンセプトによることを発信しているのだろう。裏表紙の編輯兼発行人、印刷者は久保秀雄、その住所は東京市麹町区土手三番町、発行所の大正通信社も同様である。表紙には東京と並んで大阪も記載されていることからすれば、営業のための支店も設けられているとわかる。これらの昭和三年の号は第七巻、第三種郵便許可は大正十一年とされているので、大正十一年創刊だと推定できる。

 石原の国際情報社の『国際写真情報』の創刊も同年で、朝日新聞社の『アサヒグラフ』は同十二年だからグラフ雑誌は関東大震災後の大正末期に続々と創刊されたと考えられる。 今橋映子の『フォト・リテラシー』(中公新書)が示しているように、欧米のグラフ誌の創刊が活発だったのは一九二〇年代から三〇年代にかけてで、それらとパラレルに日本のグラフ誌も発刊されていったことになる。

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書) 

 そのひとつが『国際画報』であるが、全五冊に言及できないので、ここでは三月号を見てみたい。まず表紙を繰ると、目次の下に現在でいうところの「編集後記」が「斜陽倒影」としてコラム的に並べて置かれ、その二番目には「血と肉とで苦闘、漸く我々大衆の手に獲得した参政権! 最も有意義に行使してこそ、普通選挙は光、世は明るく、清くなる」との言葉が見え、あらためて昭和三年二月に最初の普通選挙が行なわれたことを想起するのである。 それにモノクロの皇后の写真、沼津の浮世絵、ボッチチェルリの「讒訴者」、磯田湖龍斎の「雛形若葉初模様」の各一ページが掲載されている。

 それから一ページ毎にモノクロ写真がそれぞれにレイアウトされた、時代を浮かび上がらせる「普選案通過史の回顧」「栄冠は何れに? 本邦初めての普通選挙による衆議院そうせんきょ」が並んでいる。その後に「英国ラグビー軍わが軍を子供扱にして帰る」というスポーツページ、「芽を出した椰子の実」「欧州各国美術工芸品誌上展覧会」、さらに脈絡なく、「労農露西亜で活躍する片山潜氏」「南欧に咲き誇る名花リカーネ・ハイド嬢」「米国潜水艦84号沈む」「ロスアンゼルス市を風靡する巫山戯た新流行の建物」「暹羅の古典的白象の儀式」「リンドバーン大佐の墨国訪問」「大宰府都府楼の址」が続いていく。

 そして次にはまたカラーで富田温一郎の「緑明」、間郁時雄の「窓」という絵、山中宏の「春日遅々」と題した芸術的写真、「美術工芸品としての更紗と敷瓦」、それから再び「国際連盟軍縮快事」「米国議会開院式」「珍妙なフイリツピン人の風俗」「ニカラガへ送らるゝ兵士と弾薬」などの国際写真が続き、ようやく大型グラフ雑誌を閉じることができる。そして表3広告で、大正通信社が『国際情報』の他に、月刊誌『映画』『写真通信』『演芸写真』を刊行していたことを知るのである。

 こうした直販形式の大型グラフ雑誌の紹介は初めてで、ラフスケッチに終わってしまったが、出版社や編集者、読者のことを再考したいと思う。


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